ふいに誰かとぶつかった。
反射的に「すみません」が飛び出す。直後、低い声が鼓膜を揺らした。やってしまった、と思った。あわてて「失礼しました」と言葉を変えて、おそるおそる視線を上げる。そこには鋭い眼光と見慣れない髪型、そして派手なスカジャンを着た青年がいた。
見えていたら絶対に避けて歩いたはずなのに、数秒前の自分はいったいどこに目をつけていたのか。初手で謝罪するなが通用するのは、自分が本当に悪くないときだけだ。今回は明らかに前を見てなかった自分が悪い。
いまだ前を立ちふさがる彼は、私の顔をまじまじ見ると首を傾げた。
「――あんた、姉貴の……」
「?」
「オレだよオレ! 有馬雪成、つっても知らねーか。弟って呼ばれてた、」
「…………ああ! あ、……え⁈」
有馬雪成という名前と、目の前の人物が結びつかない。数年前に何度か友達の家に遊びに行かせてもらったときに、少しだけ話して遊びに行ってしまったのが彼――有馬弟こと有馬雪成だった。成長期と声変わりとヘアスタイルで随分と別人のようになってしまったらしい。記憶の中の彼とは全然違う。本人には悪いから言わないけれど、どこぞのチンピラかと思ったくらいだ。知っているひとでちょっと安心した。
それにしてもよく覚えてたな、と感心する。私は今の今まで、その存在ごとすっかり忘れていたのに。
「おお……成長したね。イメチェンした?」
「他に言い方あるだろ……」
「ごめんごめん。カッコよくなったね〜!」
「ふふん、まあな」
こんなあからさまな社交辞令でも素直に反応してくれるあたり、見た目がどうであれ年相応の可愛らしいところだと思う。
彼の姉が友達にあたるわけだが、高校を卒業してからはほとんど会っていない。もう友達と言えるかどうかもあやしい距離感になってしまった。たとえば、「今日、有馬弟に会ったよ」のひとことすら送るのを戸惑うくらいに。
「お姉さん元気?」
「今日もオレを顎で使いやがった。マジで腹立つぜ」
「それでもちゃんと言うこと聞いたげるんだ」
「あー、まあ……。あとがめんどくせぇからよ」
「良い子だね」
「……すか」
照れたのかそっぽを向く。耳が赤くなっている。なんだ、可愛らしいとこしかないじゃん。
「お姉さんは褒めてくれない?」
「んなことするタマかよ」
「じゃあ私が代わりに褒めてあげよう。いつもちゃんと言うこと聞いててえらいね〜」
可愛がりモードに入ってしまい、頭にはうまく手が届かないから背中をぽんぽんと叩く。「うぜぇ」と言いつつも振り払われないのをいいことに、「褒められたくなったらいつでも声かけていいよ」などと年上風をビュービューに吹かせる。
「連絡先でも交換する?」
「…………する」
そのきめぇノリなんだよ、と言われたので、「やっぱ年上は包容力がないとね」と返しておいた。
「なんて登録しとく? やっぱ雪成くん?」
「姉貴にそう呼ばれてるみたいで落ち着かねぇ……」
「じゃあフルネームにしとこう。有馬雪成、と」
こうして有馬雪成と繋がったわけだが、その後チャットで会話が続くことがなければ、とくに連絡することもなく、時間だけが過ぎていった。
◇
人数合わせで同期に呼ばれた大学のコンパで、思ってた以上に飲まされた。誘ってきた当の本人は、幹事だからか見えるところにいない。要するに放置されている間に、何人かと世間話程度の話をしたわけだけど、それが良くなかった。グラス空けたら注いでくるし、水を飲もうとしたら別のものに変えられてるし。
同期が困ってそうだから引き受けたけれど、こんなやつらしかいないならもう参加しない。二次会の話が出ているところで、もう帰ろうと立ち上がる。いつもより体が重い。でも歩けないわけじゃない。
送ろうか? という申し出には頑なに拒否を示した。むやみやたらに触ろうとしてくる手を払い落とす。いまどきこんな古典的な手を使うなんて頭湧いてんのか? と、思考ははっきりしているのに、少し動いたところでアルコールが回ったのかふらついてしまった。しゃがみこんだところを、誰かが近寄ってきた。
「やっぱ送るよ」
先ほど送ると言ってきたのとは違う男だった。結構です、と断る。
「呂律回ってないって。ちょっと休んだほうがいいんじゃない?」
そう言って立たせようとしてくる。
「あそこで休憩しよう」
男が指差していたのは、滞在時間と金額が書いてある看板がでかでかと掲げられた場所だった。――連れ込まれる! そう理解した瞬間、走り出していた。歓楽街を駆け抜け、ネオンの少ない方を目指す。二回くらい転んだかもしれない。追われると思っていたが、そこまでしつこくはなかったらしい。ということは、ワンチャン狙われていたってことだろうか、どこまでも腹立たしい。
再びしゃがみこむ。息は切れ、足が痛い。頭も痛い。帰りたい。けど、家まで距離がある。スマホで今からでも泊まれるホテルを探そうとして、近づいてくる足音が聞こえた。体が強張る。たぶんもう走れない。どうしよう、どうしよう、どうしよう!
「――間に合った……!」
降ってきた声は、こないだ再会した彼――有馬雪成のもので。安心したら腰が抜けてへたりこんでしまった。
「ひでぇ顔」
「びっくりした……なんで、」
「店から出てくるとこたまたま見かけたんだよ。具合悪そうなのに連れ込まれそうになってんのも見たわ」
それは最初から見られていたってことか。未成年がこの時間にあのへんにいることも問題だけど、今は置いておく。
「あいつ、あの声かけてたやつな、今ごろ泡吹いてるぜ」
「……なんかした?」
「さあな」
立てるか? と差し出された手を握るも、腰は抜けたままらしく力が入らなかった。「ごめん。立てない」と言うと、「仕方ねぇな。乗れ」と背中を貸してくれた。弱ってるところにこのスマートさは毒かも、と思いながら腕を回す。
「酒くさ。どんだけ飲んだんだよ」
「飲まされた。水だと思ったら日本酒だった」
「姑息なことするやつがいるもんだなぁ」
「わかる。私も頭湧いてんなって思ったもん」
あたたかい背中に頬を預ける。大きくて安心する。見た目はいかついのに、こんなに良い子に育ったんだな。女の子はちゃんと大事にしそう。どっかの誰かみたいに、酔わせるなんて卑怯なまねはしないだろう。
「ごめんね、面倒かけて」
「あ? なにが?」
「家まで送らせて、ごめんね」
絶対に私が悪い。だから謝る。でも元をたどれば防げたかもしれないことだ。年上なのに厚意に甘えまくって、いまになって転んだ時にぶつけたところがじんじんしてきて。なんだかもうどうしようもなく情けなくて、涙が出てきた。
「泣いてんのかよ。声震えてんぞ」
「……そうかも」
「年上のホーヨーリョクはどうしたよ」
「面目なさすぎる〜……」
あとで何かお礼しないとな、と思う。このくらいの年の男の子が喜ぶものって何だろう。
「雪成さー、何か欲しいものある?」
一瞬動きが止まったが、すぐに歩き出す。
「突然どうした」
「お礼したいけど何がいいのかわかんなくて」
「いらねぇ。弱ってる女からもらうものなんてねぇよ」
「かっこい〜」
こんなにかっこいいなら、付き合っているひとの一人や二人いそうなものだ。厚意には甘えたけれど、あとで面倒なことになるのは本意ではない。
「雪成さー、」
「今度は何だよ」
「答えたくなかったらいいんだけどさ、彼女いる?」
「…………いねえ」
「妙な間があった。ほんとはいるでしょ」
「いねえって。オレはチームの皆でバカやってるほうが楽しいんだよ」
「そっか。彼女いるならややこしくなる前に解散しようと思ったけど、いないならもう少しだけお願いします」
「へーへー」
そのあとも適当な会話をしたり、しなかったり。だんだん瞼が重くなってきて、返事したくても何言ってるのかわからなくなってきて、体も重くなって。雪成の声が、心地よく遠のいていく。
◇
背中から規則正しい寝息が聞こえてくる。――この女、人の背中で寝やがった。それだけ安心できてるってことかと、先ほどまでの蒼白な顔を思い出す。
本当に、偶然だった。ぶつかったときに再会していなかったら見過ごしていた。それくらいあの歓楽街ではよく見かける光景ではあるし、見ぬふりをしてきた光景でもある。有馬がいなくてもなんとかなっただろうが、釘を刺したのは有馬だった。少し拳で話し合いをした。ただそれだけ。
女の生温い息がかかる。友人の弟だからとここまで信頼されるのもむずがゆい。有馬自身は普通に年頃の男な自覚がある。だからそう、アルコールに混じる自分や姉とは違う香水のにおいや、触れるだけで壊れそうなほど柔らかい体に、柄にもなく緊張していた。そんなことはつゆ知らず、すやすやと眠る女は有馬に擦り寄る。有馬には女友達だっているし、背中を貸したことだってある。耐性がないとか、そういうのじゃないと自身に言い聞かせる。
そして、はたと立ち止まる。大まかな方角は聞いたしそこに向かっていたわけだが、有馬は女の住所を知らない。眠ってしまった女を、いったいオレはどこまで送っていけばいいんだ。
軽くゆすってみるが起きる気配はない。途方に暮れた。さすがに酔いつぶれた女を背負って歩いた経験はなく、このあとどうすればいいのかわからない。天を仰ぐ。誰もオレを助けちゃくれねぇ。街灯に導かれる蛾をぼんやり眺めながら、ふいに天啓を得た。
今日は姉貴も家にいるはずだと思い至り、考えうる最善の選択をするのだった。それが事態をややこしくさせることになるとは知らずに。
2026.04