雨取さんは不思議な雰囲気の子だ。小六で同じクラスになったときにそう思った。  少しだけ陰のある横顔は大人っぽくも幼くも見える。誰よりもつややかな黒髪は短く切りそろえられている。たびたび発せられる声はか細く消え入りそうなのに、どこか蕾を感じさせる。その佇まいにはっと目を引かれたかと思えば次の瞬間には見失ってしまう。近づこうとすれば、同じだけ離れていく。手で掬った水が指の隙間からこぼれていくように、彼女はするりと抜けていく。こぼれてしまえばもうすくいあげることはできない。  一度だけ雨取さんと話したことがある。  その日はいつもなら学校が終わるとすぐに姿の見えなくなる彼女の後ろ姿を通学路で見かけた。彼女の家族構成も、家の方角も知らない。あったのはたぶん、ただの好奇心だった。誰も知らないだろう彼女のことを知りたかった。行き帰りで寄り道をしないように、ひとけのない場所は行かないように。すべて知らんぷりをして、その背を追いかけた。  家と家の間を通り抜け、公園を横切り、柵を乗り越え、辿りついたのは警戒区域一歩手前だった。彼女はこの先が警戒区域であることを示す看板を無視し、その向こうへ行こうとしていた。心臓が早鐘を打つ。警戒区域が何であるか、なぜそんなものがあるのか、私たちは知っている。三門市に住む私たちは痛いほどに知っている。  思わず走り寄ってランドセルを引っ張った。体勢を崩した雨取さんと一緒に倒れ込む。大きく見開かれた瞳が私を見上げていて、聞こえないけれど小さく開かれた口は「どうして」と動いたように見えた。  私の方がどうしてと言いたい。どうして一人でこんなところに来てるの。どうして向こうに行こうとしたの。どうしていつも一人なの。どうして、どうして。 「そっちは、危ないよ」  知ってるでしょ、と続ける。紫紺がゆらり揺れたかと思えば、ふいと視線を逸らされた。 「……知ってるよ」 「それなら、」 「だからだよ」  だから一人でここに来たの、と彼女は言う。はっきりと、でも少し震える声で。  やんわりと手を押し退けられた。一人で立ち上がる彼女を見上げたまま、私は一歩も動けなかった。辛うじて伸ばした手は空を切る。 「またね」  そう言って彼女は警戒区域の向こう側に行ってしまった。「待って」とも「一緒に行く」とも「行かないで」とも言えず、ただ、小さくなる彼女の背を見つめ続けることしかできなかった。  私は境界を越える恐怖に勝てなかった。彼女を引き留められなかった。彼女が向こう側にいることを知りながら、誰にもその事実を伝えられなかった。無力な私は彼女のことを知る資格はない。  次の日、雨取さんは教室にいた。いつも通り一人で。いつも通り、目が合うことはない。まるで昨日のことは幻だったのかと思うほど彼女はいつも通りだった。もしかしたら昨日だけではないのかもしれない。警戒区域の向こう側へ行くことは。  何か言葉をかけなければと思いながらも、するりと消えてしまう彼女を掴むことはできず。  あの日以来、雨取さんと話す日は来なかった。  ◇  中学生になってからあっという間に一年が過ぎた。  相変わらず警戒区域は存在しているし、ボーダーの隊員だという生徒が学校に在籍している。真偽は不明だけど、ボーダーというのはもうテレビの向こうだけの話ではないのかもしれない。  雨取さんとは同じ中学だけどクラスは違った。もはや接点も何もなく、校内ですれ違うだけの関係でしかない。俯きがちの横顔は少し陰がある。彼女は今も警戒区域を訪れているのだろうか。もし、そうだとしても。私は彼女を止める術を持たないままだ。  そうして、もうすぐ二年が過ぎようとした頃。  学校がネイバーに襲われた。わけもわからず誘導に従って逃げたから詳細は知らないけれど、ボーダー隊員だという先輩が倒したらしいとあとで聞いた。  それからしばらくして、雨取さんの様子が変わった。  陰のあった横顔は晴れやかに。紫紺の瞳は真っ直ぐ前を見据えている。か細く消え入りそうだった声ははっきりと芯の強さを感じさせる。それはまるで、大輪の花が咲き誇るように。  彼女に何かあったのだろうということは明白だった。はっと目を引かれて、けれどもう消えることはない。彼女はそこに居続ける。 「チカ子ー!」 「出穂ちゃん」  名を呼ばれて駆け寄る彼女の足取りは軽そうだ。つややかな黒髪が動きに合わせて跳ねている。ふと、目が合って。「あ、」美しい声で紡がれた聞きなれた音。一瞬、それが誰の名前なのかわからなくなった。 「またね」  笑みを浮かべて手を振り、そうして外された視線は私ではない誰かに向けられている。  相変わらず、私は彼女の背を見つめ続けることしかできない。けれど、きっと彼女は、いまは警戒区域に足を踏み入れていない。震えていない声と、一人ではない後ろ姿がその証拠だ。 2022.04 『揺れる花は境界線の上で』様提出