小さな袋を「これあげる」と男――棪堂哉真斗の前に置いた。棪堂は「ふーん」と長い指先で弄ぶ。 「なんで?」 「サイズミスったから」  目線はスマホに落としたまま、努めて冷静に返す。先に座っていた彼の前には、飲みかけのドリンクが置かれている。自分の分はモバイルオーダーで注文、運ばれてくるのを待つ。  袋の中身、銀色がチープな輝きを放っている。  シンプルなアクセサリーがほしいなと思って適当に購入したリングだったが、いざ使おうと着用したところ、己の指に合わなかった。さすがに自己都合すぎて返品することもできず、悩んだ末、誰かに譲ろうと思った次第である。周りでアクセサリーを着けている人は限られていて、ぱっと思い浮かんだのが棪堂だった。  とはいえ、この男はアクセにしろ衣服にしろ、年の割に良いものを身に着けているらしいということを、何かの話題で思いがけず知ってしまったのだ。その資金源については聞かないでおくとして、いま彼の指に着いているリングも、おそらく有名なブランドのなんとかというシリーズなのだと思う。だからといって本人に直接聞いたことはないけれど。そうなると安物の、それも既にいくつか持っているリングをあげても使いどころはない。いくら指が十本あるといっても、だ。  あーあ、サイズだけでなく人選もミスった。 「まじで本当に深い意味ないし使わなかったら捨ててくれていいしなんかごめん深い意味はない」 「早口ウケる。え〜? 人様にもらったものホイホイ捨てる人間に見えてんの?」 「うん」 「……さいでっか」  人様にというより、いらないと思ったものはスパンと切り捨てる印象がある。ものだけでなく、人間関係も。付き合うメリットがないと判断したら、関わってきた年月に関係なく、切り捨てる。そうして来るものを拒まず、去るものを追わない。情や執着とは縁がなさそうだった。  だからこそ、そんな棪堂と細々とではあっても交流が続いているのは不思議なことだった。自分は切り捨てられる側の人間だと思っていたから。 「今日じつは用事それだけなんだよね。こんなことで呼び出してごめん」 「珍しいと思ったぜ。いつもオレからだもんなぁ」 「お詫びにここはおごる。何欲しい?」 「はは、いらねー」  指だけじゃなく、ハイネックの隙間からもちらりと見え隠れするタトゥー。また増やしたのかなと思いながら視線を外す。  棪堂と出会ったのは小学生のとき。変な時期に突然転校してきたかと思えば、当時はれもののように扱われていた男の子と、当たり前のように行動を共にしていた。二人の仲が良かったのかどうかは知らない。棪堂が殴り飛ばされているのは見たことがある。それだけで、関わることはなかった。  話すようになったのは中学生になってからだった。席が近いから面倒見てやれ的なよくある話で、嫌々関わるようになったのだ。それも最初だけ、このときにはもうどこかのチームとケンカをしていて、学校にいることのほうが珍しかった。そのうち彼は学校に来なくなった。  そんなある日、街なかで棪堂を見かけた。関わらんとこうと思ったのに、この日に限ってなぜか話しかけられ、気が動転したまま周りの目から逃れるように人気のないところ――使われなくなった雑居ビルに駆け込んだ結果、どこで何を間違えたのか不定期で会うことになった。だいたいが呼び出されて、だったけれど。何をするでもなくただ会って、彼が唯一と言っていいほど付いて回っている例の男の子――焚石矢の話を聞く。それだけ。棪堂が言っていることの九割は理解できなかった。だから最初はどうでもよかったはずなのに、だんだんと彼が楽しそうにしているならそれでいいか、と思うようになっていった。焚石の話をしているときに限るけれど、ちょっとかわいらしく見えることもあるくらいだった。  それも高校生になってからは回数が減り、今では普通にカフェなんかに行ったりしている。まるで友達みたいに。棪堂に呼び出されて、なのは変わらない。  棪堂はいつも「またな〜」と軽やかに去っていくけれど、いつ終わりが訪れるかはわからない。今日かもしれないし、明日かもしれない。メッセージの通知が来るたびに気が重くなる。気が重くなるくらい――彼との時間を気に入っていることに、気づきたくなかった。  いつの間にか棪堂は、リングを袋から出して目の前にかざしていた。認めたくないけれど、絵になるな、なんて思う。認めたくないけれど。成長していく彼は、魅力的に見えるんだろうなと思わざるを得なかった。声をかけられているのを見たことがある。それをかわすのに遅れたと言っていることもあった。知っているのに知らない人になっていく。私だけのあなたでいてほしいわけではないけれど、そうならない人であることもわかっているけれど、ここまで来たら何か一つ彼に残したいという気持ちがないこともない。――あ、だから今回、こんな稚拙な独占欲が現れてしまったのか。  そうしてひとしきりリングを眺めたあと、棪堂はおもむろに指にくぐらせた。私の人差し指でぶかぶかしていたものが、彼の薬指に納まっている。まるで、はじめからそう誂えられていたかのように。 「プロポーズみてーだな」 「…………正気?」 「狂ってるように見えるか?」 「まあ、だいたい」 「えー! 傷ついちゃうなぁ」  言動が突飛なのはおそらく最初から。ということは、彼はずっと狂っているということ。そんな彼と縁を切らずにいる自分もまた、世間一般から見れば狂っているのだろう。 「あげた手前ほんとうに申し訳ないけど、これ安物だし棪堂には合わないと思う」 「あー、まあそうだろうな」  この男が私への配慮などするわけがないと思いつつ、「捨てていいからね」と重ねて言っておく。胃がきりきりしてきた。もし過去に戻れるなら、数時間前に戻って己にやめておけと言いたい。どんな感情から出たものであっても人に何かをあげようなんて思うな、と。  視線が交わる。目を弓なりに細めた棪堂が口角を上げながらくく、と声を漏らした。 「手放すわけねーだろ、こいつもおまえも」 「……?」  聞き間違いでなければ、なんかトンデモ発言が飛び出したような気がする。さすがに胃が痛すぎて幻聴でも聞こえたのかもしれない。  ドリンクをぐいっと飲み干してから、「ごめん、あんま聞こえなかった。なんて?」とたずねた。 「そーゆー律儀なとこ好き~」 「えっと、褒められてる……?」  訝しんでいると、棪堂は「言ってなかったか?」と首を傾げた。 「オレ、お前に裏拳くらったときからずうっと惚れてるもん」 「ほれ……? てか、うらけん…………?」 「まさか覚えてねーの⁉」  今日イチでかい声で詰め寄られる。そもそも誰かを殴った記憶がない。人違いでは? 「いやいや、中学でさあ、」  棪堂が言うには、中学生のときに不慮の事故で後ろから抱きつく形になってしまった瞬間があったらしい。「わり、」と離れようとしたところ、振り向きざまに飛んできた拳をモロにくらい、口の中が切れたのだとか。 「じんじんする頬を押さえながら当時のオレは思ったワケ。お前しかいねーなって」 「誰の話してんの?」  言われたところでまったく記憶に残っていなかった。抱きつかれて裏拳かますなんて、絶対――とは言い切れないけれど、たぶんしない。 「自分のこと大人しい常識人だと思ってるタイプ? んなわけねーじゃん」 「なっ! 失礼な!」 「小六のとき女子と殴り合いしてたろ」 「して、……た……かも」 「中一のときターゲットにされそうになったところを机蹴り飛ばして黙らせた」 「…………」 「中二の、」 「なんでそんなの知ってんの、学校来てなかったくせに」 「情報網があんだよ。で? 思い出した?」 「……断片的に。先輩にしつこく付きまとわれてイライラしてたときだったかも。棪堂にじゃなくて、男子全般にキレてた」 「うんうん」 「手とか肩とか触られてキモすぎて払いのけたりはしてたし、その、延長線上でやっちゃった……のかな?」  ぼんやりと思い出してきた。無言で頬を押さえる誰かに謝罪して逃げ出したことがあった。当たった拳が痛くて、保健室で保冷剤を借りた覚えがある。 「詳しい経緯は知らねーけど、そんときからよ、オレが好きになったの。ずうっと下心しかねーよ」 「し、したごころ……」  突然の直球に閉口する。テーブルの下では、先ほどから棪堂の脚がぴったりくっついている。おそるおそる視線を上げた先、明らかに熱の籠った瞳が私を射抜く。今まで一度もそんなそぶりを見せたことがなかったのに。 「手始めにー、」  ぎゅっと握りこんでいた拳を包むように、棪堂の手が覆いかぶさる。視線は絡んだまま、逸らせなかった。緊張状態の指一本一本を少しずつ解かれていく。そうして、指と指の間に滑り込んだ彼に捕らわれる。熱くて、かさついていて、気を強く保っていないとどろどろに溶けてしまいそうだった。彼の指を彩るリングの冷たさだけが、私を正気に戻そうとしている。 「手でも繋いじゃおっか」 「……もう繋がってるんですけど」 「そーだな♡」  そんなふうに無邪気な笑顔を向けられると何も言えなくなってしまう。絶対に確信犯なのに、なんか、そう、許してしまいたい気持ちになる。何もかもを。  小さく呼吸を繰り返しながら、体の内側で燻ぶっている熱を自覚する。いまだ繋がったままの手だったが、おもむろに棪堂の指先が軽く爪を立てる。痕が残らないくらいの強さで、何度も。 「ちょ、爪、なに?」 「んー? 考え事してるみてーだったから。オレを見ろ、ってな」  店内の喧騒が遠くなる。私の目には棪堂哉真斗しか見えない。彼だけが色鮮やかに映り、視界を覆い尽くす。これまでのことも、これからのことも、いまこの瞬間を越えられない。  今日、ここに至るまでに、いくつもの選択肢を間違えたのだろうと思う。きっとこれからも間違え続ける。そのたびにうなだれ、けれどもこの手を振り払わずにいたことを間違いだったと思いたくない。 2025.12