ぼとりと花が落ちた。椿の花。
通学路でたまたま目にしたのだが、思わず立ち止まってしまった。足元に転がる姿は綺麗なままで、他の花と比べても変わりのないように見える。
いつもなら道端の植物や景色にこれといって意識を向けることはない。けれども今日にかぎって、どうして気になってしまったのだろう。
しゃがみ込んでそっとすくい上げる。思っているよりも重みがある。アクリルガッシュで塗ったような発色の花弁は、空虚な鮮やかさを見せつけていた。間違いなく先ほどまで生きていたのだ。落ちてしまった花は朽ちていくばかりで、何も残せない。その鮮明な色でさえ。
ふと何か引っかかりを覚えた。椿。真っ赤な花。落ちて。鮮やかな。むなしさ。それらは幾重にも重なって、沈み、浮かび、弾け、溶けあってひとつになっていく。やがてひとりの女の子の姿を映し出す。この子は――鳩原未来。彼女は花のようではない。彼女と過ごした時間は鮮やかではない。彼女とはたしかに交流があって、しかし結局は「さようなら」のひとことすらなかった。
私の友だち、だったかもしれないひと。
◇
彼女との出会いは劇的でもなんでもなかった。席が近くてよくペアを組まされたから自然と話すようになった。その程度のものだ。話すといっても、本当になんでもないことしか話していない。その日の天気とか、今日のお弁当のこととか。一晩寝たら、もはや寝るまでもなく帰ったら忘れてしまうような話題ばかりだった。
話しかければ答えてくれる。話しかける。答える。会話という名のキャッチボールはそれだけで成立する。だから彼女が曖昧な返事をしてようがなんだろうが、私は仲良くなれているのだと錯覚していた。思い返せば話していたのは私ばかりで、彼女は答えるばかりだった。それで会話ができていると思い込み、さらに傲慢なことに、拒絶しないのだから彼女と私の関係は良好だと思い込んでいた。適度な距離感だとすら思っていた。
だからこれまでの数年間、誰にも話せなかったことを彼女に打ち明けることにした。家族にも言えなかったことだ。押し付けがましいことこの上ないが、私としては秘密を打ち明けるということは大きな決断であり、最大限の信頼の証でもあった。打ち明けて、そうしてどういう反応を返してほしかったのか。今となってはわからない。ただ「そうなんだ」と、私の心の奥の弱いところを受け入れてほしかったのかもしれない。誰かにそれでも生きていていいよって言ってほしかったのかもしれない。
あのね、と切り出す。彼女がこちらに意識を、視線を向けてくれていたのかは確かめなかった。
「私ね、弟がいたんだ」
彼女は「……そう」とだけ言った。
「あ、いたっていうのはね、今はいないってことなんだけどね」
中学生のころ、この町でネイバー――あとになってそういう名のものだと公表された――による大規模侵攻が発生した。これまでの平穏が一変、地域によっては壊滅状態に陥り、また、死傷者や行方不明者も多数存在し、町は大きな被害を受けた。
うちは弟がいなくなった。文字通り消えたのだ。跡形もなく。
弟とは喧嘩ばかりしていた。生意気で、私は許してもらえなかったことも「男の子だから」と許されてることに気づかず、すぐ調子に乗る子だった。大規模侵攻の数日前、大きな喧嘩をした。きっかけは思い出せないくらい些細なことだったが、意固地になって「謝るまで話しかけんな!」と吐き捨てた。謝るまで絶対一生許さない。そう思っていた。売り言葉に買い言葉で、弟も「一生謝んねーし!」と言った。
それが最後に交わした言葉だった。
「顔なんて二度と見たくない、どっか遠くに行っちゃえー! って思ったんだよね。でも本気では思ってなかった。カッとなって言っちゃった。後悔、してる。だってほんとにどっか行くとは思わなかったから」
私のせいなのかなと思いながら生きてきた。私のせいだったらどうしようと思いながら生きてきた。あのとき意固地にならなければこんなことにならなかったのかな、どっか行けなんて思わなかったらよかったのかな、とか。考え出すと止まらなかった。自分を責めた。過去の自分を責め続けている。すべて後の祭りだというのに。
弟は行方不明者のひとりとして、今も捜索が続いている。きっと町の端から端まで調べ尽くしたと思う。定期的に警戒区域内を調べているのも知っている。けれども一向に行方が掴めない。
「どこに行っちゃったんだろうね」
彼女は何も言わない。私のせいかなと言っても、肯定しなければ否定もしない。それを優しさと受け取りたかった。無意識に握りしめていた手のひらから力を抜く。
ここまできたら導き出される答えはもうひとつしかない。|攫われた《・・・・》のだ。誰に? ――ネイバーに。
ねえ、と呼びかける。彼女の視界に私が映る。
「"向こう側"って人がいるのかな?」
ネイバーは門――ゲートと呼ばれている――の向こうからやってくる。私が目にしたことのあるネイバーは、生き物のような形をしていた。仮に生き物だとして、侵攻を目的に統率をとるためには群れのリーダー、あるいはそれらを指揮する存在が必要だろう。そのためには人間、あるいは人間に近しい何かが存在するのではないだろうか。門の向こう側にも何かしらの文明があるのではないだろうか。人がいれば国が興り、国が興れば文化が発展し、文化が発展していくと文明となる。文明と文明の衝突は、戦争と呼ばれるものなのではないだろうか。
「考えすぎだよ」
静かに彼女は切り捨てる。ばかばかしい、とでも言うように。
「弟さん、見つかるといいね」
風が吹き付けて髪を乱していく。薄目で見上げた彼女の表情はよく見えなかった。この話はこれっきり。
彼女がボーダー隊員だというのは、クラスメートから聞いた。本人には「聞かれなかったから言う必要ないと思って」と言われた。これを私はどう受け取ればよかったのだろうか。
◇
鳩原未来が今、どこで何をしているのかを知らない。ある日突然、学校に来なくなった。それから一度も彼女の姿は見ていない。ボーダーは辞めたと聞いている。なんでも隊務規定違反を犯したらしい。彼女が? と思った。何かの間違いではないのかとも思った。けれども彼女と同じくボーダーに所属している当真くんも国近さんも今さんも、首肯した。ただそれだけ。
それ以上のことは知らない。家の場所も家族構成も、そういえば彼女の好物すらも知らない。教えてもらえなかった。所詮その程度の仲だったのだーーいや、私がもっと彼女に興味を持っていれば、もっと彼女のことを深く知ろうとしていれば。
結局のところ、私が話すばかりだった。一方的に押し付けるばかりだった。私は彼女に秘密を打ち明けたけれど、彼女はそうではなかった。最初から最後まで対等ではなかったということだ。気づくのが遅すぎた。けれども恨むとか憎むとかそういう感情はなくて、どちらかといえば心配のほうが大きかった。ご飯ちゃんと食べてるかなとか、夜は眠れているかなとかが、浮かんでは消えていく。記憶のなかの鳩原未来は、力なく笑う隈の消えない女の子の姿のままだ。
彼女とはそう遠くない未来で道を違う気はしていた。根本的な何かが違ったのだ。たとえばそれは、己の譲れないもののためには法を犯すことも厭わないといった、心持ちの違いだった。もちろん私が厭わない側、彼女が厭う側だ。だから彼女は、きっと隊務規定違反なんてしていないと思うし、私の知らないどこかで正しく生きているのだと思う。
日常から彼女が消えて半年以上経った。彼女と最後に交わした言葉は何だったかと記憶を辿っていく。
春先の、桜の蕾にまだ少しかたさが残っているころ。
「毎年あの日が近づくと、一年でいちばん落ち込むの」
「そうなんだ」
「許してとは言えないし、本当に許してほしいひとはいない。だから代わりに許さないでいてね」
「それは重要任務だ。いつまで?」
「弟が見つかるまで」
眉尻を下げて力なく笑む。彼女が腹の中で何を思っていたのか、私には知る由もない。
そのあと新学期が始まり、彼女とはクラスが別れた。ペアを組むこともなければ選択授業が一緒になることもなく、高校も三年目にして疎遠になってしまった。
鳩原未来。友だちだったかもしれないひと。
彼女の未来が星の光の届かないところであったとしても、太陽も月もない未知の世界であったとしても、どうか明るいものでありますように。
今日だけは祈りを捧げることですべて許されたかった。
2024.01