樋鳴りの美しい音が響く。  鯉口を切り、踏み込み、床を擦る。衣擦れと彼の呼吸。彼のうみだす音たち。外からは蝉を始めとした虫たちの声。時折、鳥の囀りも混じる。二人きりの空間は思っているよりも音に満ちている。  額にじわりと汗がにじんだ。ゆっくりと息を吸うと朝の澄んだ空気が肺に沁み込んでいく。視線の先、上座では窓から射し込む光が生駒達人と刀身をまばゆく照らしていた。  昨日の時点で彼から道場に寄ってから大学に行くとの連絡があったので、それならばと私も朝から道場に足を運んだ。 三門市にいくつかあるうちのひとつであるこの道場は、三門市立大学からさほど遠くないため、門下生である大学生が朝練に行くことがある。彼も門下生のひとりで、防衛任務の入っていない日の朝は稽古をしていることが多い。邪魔でないことを確認して、私はよく下座から見学させてもらっていた。  いつの間にか時間が経っていたらしく、彼は相棒である刀を片付けていた。そしておもむろに袴を脱ぐ。正座のままぼうっと彼の更衣を眺めていると、視線に気づいた彼が前を隠しながら「きゃっ」と低い声で悲鳴らしきものを上げた。先ほどまでのかっこよくて美しい彼はどこにいったのか。あまりのギャップに風邪を引くかと思った。  道場を出て大学までの道を歩く。そろそろ気温が上がりだすため、じんわりどころかがっつり汗が流れてくる。ハンカチなんかじゃ全然拭えないから、フェイスタオルを持ち歩いているなんて、彼にはバレたくない。隣を歩く彼をちらりと見上げる。首筋を汗が伝っていた。見ているだけで暑くなる光景だが、なんだか爽やかに見えるし、私の好きな彼の香りがする。 「シャワー浴びてから大学行く?」 「せやなあ、体育館のシャワールーム借りるわ」 「じゃあ席とっとくね」 「おん、よろしく」  一限がある教室棟の前で一旦わかれる。体育館に向かう達人の背中を見送った。汗を吸った布がところどころ彼の背を濃く彩っている。  すんと鼻を鳴らす。彼の残り香は消え、私の香水のにおいだけがかすかに漂っていた。 「なあなあ、今日ひま?」  カフェテリアで昼ごはんを食べていると、待ち合わせていた達人がやってきた。突然のことに首を傾げながらこのあとの予定をざっと確認する。「ひま、だけど……」と返す。 「ほな行こか」 「どこに?」 「夏祭り」  こないだかき氷食べたいて言うてたやん、と言われてそういえばそんなことを口にしたようなと数日前の記憶を手繰り寄せる。  その日は、学内の本屋でとくに意味もなく情報誌をぱらぱらと捲っていた。達人は少し離れたところでレポートに使う専門書を探していて、待っている間の暇つぶしだった。デート特集が組まれているそれは、今年絶対に行きたいデートスポットなどという煽り文が書かれていて。達人がいればどこで何をしててもそこがデートスポットになるというのに、なんて思う。いつの間にか用事を済ませて側に立っていた達人が手元を覗き込んできた。 「お、なんの特集?」 「今年絶対行きたいデートスポット」 「デッ……ね、ほーん」  付き合って数ヶ月経つのにいまだに彼はデートを滑らかに言えない。女の子にカワイイは言えるのに、彼の照れポイントがいまいちわからない。でもそういうところ、可愛くて好きなのだけど。 「行きたいとこあるん?」 「んーとくには。達人いたらどこも楽しいからわざわざデートスポットとか行かなくてもなって」 「え、めっちゃ嬉しいこと言うてくれるやん。俺いま感動してる。わかるで、俺も彼女とやったら火の中であれ水の中であれそこがデ……トスポット、みたいな?」 「けど行くとしたら夏祭りに行きたいなあ、こことかこことか」 「ちょ、聞いてる?」  ページの中の数ヶ所を指差す。彼は「ほうほう」と相づちを打ちながら視線を動かした。 「あのねーあれ食べたい、かき氷」 「暑いときに食べるん最高やんな」 「なー」  ぱたんと閉じて雑誌を棚に戻す。買わへんの?と彼に聞かれて頷いた。最後に夏祭りに行ったのはいつだったか。数年前、大規模侵攻以前のことを思い出す。人々で賑わう街並み、遠くまで響く祭り囃子、夜店の様々な食べ物の匂い。久々にあの非日常な空間に行ってみたくなった。大規模侵攻以降は不定期にトリオン兵が出現、なんていう非日常が日常になってしまったけれど。私たちはボーダーでそれを日々迎撃している。  達人はこのときのことを覚えていたらしい。それで今日、誘ってくれたのだ。空は突き抜けるほどの晴天。お互いに防衛任務もない。絶好のデート日和、お祭り日和だ。誘いを断る理由はどこにもなかった。 ◇  三門市のとある神社の夏祭りは数日間にわたって行われる。今日はそのうちの一日だ。  じんわりとまとわりつくような暑さは消えないものの、太陽が沈みだしたことで焼けるような暑さは落ち着いている。神社に近づくにつれ、喧騒は大きくなり人混みも増す。はぐれないよう達人の手を握ると、彼は握り返してくれた。  参道に沿って多くの夜店が並ぶ。どこかから祭り囃子の音が聞こえた。夜店の人を呼び込む声。子どもたちの笑い声。ふいに達人の足元で子どもが転んだ。ぱっと私の手を離した彼はしゃがんで子どもを助け起こすと、その子の目線の下から声をかける。 「痛いところない?」 「ない」 「自分で歩けるか?」 「うん」 「よう泣かんかった、強いな」 「おれ、兄ちゃんだもん。泣かないよ」 「めっちゃえらいやん。ほら、あそこ、ご家族待ってはるで」 「ありがとう、お兄ちゃん」  お姉ちゃんも、とその子は私にも手を振ると家族のもとへ走っていった。私はというと、行き場のない手を持て余して達人の後ろに控えていただけだ。何もしていない。子どもに手を振り返す彼の後頭部を見下ろす。  彼は小さい子に怖がられる顔だなんだと言うがそんなことはない。彼の優しさは所作のひとつひとつに表れている。他人に敏感な子どもにこそそれは伝わるだろうと、私は思う。  ここには笑顔が溢れている。今日も明日も明後日も、悲しみに暮れることのないように。この景色を守っているのだ、ボーダーは。私は。生駒達人は。  ふらふらと夜店を渡り歩き、食べ歩く。りんご飴もたませんもベビーカステラも、こういうときでないと食べないものばかりだ。達人は途中で一回五発の射的をやりたいと言い、四発は外したものの、五発目で当てた小さなぬいぐるみをくれた。少し眉が太くてきりっとしているそれは彼に似ていて、今日はこの子と一緒に寝ようと思った。 「あったで、かき氷」  彼が手を引っ張ってくれた方に視線を向ける。氷の削れるかたい音がした。いちご、ブルーハワイ、メロンといった色とりどりの氷みつが並んでいる中に、しれっとサングリアが混ざっていた。 「んふっ」 「なになにどしたん」 「サングリアのかき氷食べる」 「サングリア?」  カップにこれでもかと盛られていく氷、そして待ってましたとばかりにかけられるサングリア。濃い紫色に染まっていくかき氷に笑いが止まらなくて、思わず聞いてしまった。どうしてこれをかけようと思ったのかと。返ってきたのは「好きなものに好きなものかけたら最強かと思って」とのこと。その理論好きだと伝えると、少し多めにかけてくれた。  すくってひとくち、舌の上で氷が溶けてアルコールは鼻から抜けていく。溶けたらただの冷たいサングリアだけど、溶けるまではかき氷だ。一度で二度楽しめるというやつだろうか。 「そんなん気になるやん。俺もひとくち、」 「達人は未成年だからまだダメ〜」 「ほな来年やな」  当たり前のように来年の話を出してくれる。彼はとくに意識していないかもしれないけれど、これが結構嬉しいものだ。  かき氷をひとくち食べて彼の腕を引っ張る。「ん?」とこちらを向いた彼の項に手を這わせて引き寄せる。きょとんとしながらも屈んでくれた達人の唇を奪ってやった。ほぼ溶けて液体になったものの一部を舌先で押し付けてぱっと離れる。 「えっ」 「どう?おいし?」 「……いや、いやいやいや、味わかるわけないやん、いや恥ずかし、誰が見てるかわからんのに、」 「誰も見てないよ」 「俺の彼女が大胆すぎる……」 「嫌い?」 「好き」 「知ってる」  夜店の明かりが、ふいとそっぽを向いた彼の横顔を照らす。手で口元を隠しているが、頬の赤みは隠せていない。私から仕掛けるなんて、付き合ってから初めてかもしれなかった。きっとこの雰囲気に呑み込まれていつもより弾けているのだろう。少しくらい大胆なことをしたって、誰も見ていない。気にしない。ここは非日常な空間なのだから。  かき氷を食べ終えて両手が空いたので、達人の手を引いて歩き出す。いつもなら放っておいたらひとりででも話し続ける彼がやけに静かだった。何か食べたいものとか欲しいものとかないの?と聞くと、ややあってから「彼女をひとりじめしたい」と呟いた。 「してるじゃん、ひとりじめ」  ほら、と繋いでいる手を持ち上げる。 「そうやなくて」 「なくて?」 「…………結婚しよ」 「?!」  行き交う何人かがこちらを見たような気がする。彼の言葉の意図を確認するよりも前に、慌てて人通りの少ない端の方、参道から外れたところへ移動した。手を引かれている彼は大人しくついて来た。 「けっ、あの、けっ……こん、て聞こえた」 「言うた」 「と、とつぜんどうしたの?」 「……さっき、」 「うん」 「さっきちゅーされて。それからなんかこう、ぐわって来たんよ」 「ぐわ?」 「ん。カワイイなぁ好きやなぁ、笑わせたい泣かせたい怒らせたい囓りたい食べたいっていろいろ溢れて止まらんくなって。もうこれは結婚しかないなって」  結婚しかない、とは。デートは言えないのに、結婚は言えるのはなぜなのか。 「わからない……」 「わからんくてええよ。この気持ちは俺だけのもんやし」  そうしておもむろに彼の腕の中に閉じ込められた。ふわりと香るにおいの強さにくらくらする。くらくらするのは酔っているからではない、はず。彼の部屋に漂うものと同じにおいと、あとはなんだろう。好きなにおいがする。 「あっ、いま絶対あかんやつやったな?いきなりぎゅーはあかんよな?」 「付き合ってるんだからあかんくない」  達人の背に腕を回して離れないよう縋りつく。どこか臆病なところのあるこの人に、どうしたら伝わるだろうか。付き合ってるのは私だ、キスもハグもその先も、なんだって受け入れる。むしろ彼に求められていることに、私ばかりではないと喜びさえ感じるのに。私にだって溢れて止まらない気持ちはある。達人にはわからない私だけのものだ。 「けっ、こん、はまだ考えられないけど、でも達人のこと嫌いになんてならないから」 「ほんま?」 「うん、誓って」 「ほな予約だけしとこ」  達人は体を離し、私の手を掴んだかと思えば薬指を咥え込む。突然のことに目を丸くする私を、彼は一瞥した。その表情からは何も読み取れない。何を考えているのかわからなくて不安になる。ふいに彼は伏し目になると薬指に歯を立てた。思わず引っ込めようと動いた手は彼の力にはかなわず、微動だにしない。遅れてじわじわと羞恥が襲ってくる。彼は口から指を解放すると歯型がついたであろうそこを撫でた。彼の頬が、緩んでいる。知り合ってから一年以上経つのに、そんな顔を見たのは初めてだった。と同時に、先ほどの結婚という言葉がたしかな輪郭を持って頭の中を駆け巡る。――あつい。どうしようもなくあつい。頬に彼の手の甲が触れる。触れたところがあつくて溶けそうだ。無意識に擦り寄る。近くで息を呑む音がした。 「どしたん、顔あつない?酔った?」 「……自分の発言と行動を振り返ってください」 「なんか変なことしたっけ俺」  すっとぼけたような声音に、はあ?!と思って顔を上げると、彼の目が静かに私を射抜いていた。緩んでいた頬はすっかり元通りに。しかし瞳の奥に燻っているであろう感情は収まることなく刺してくる。ごくりと唾を飲み込んだ。  あついね、達人。今日はとってもあつい。 「……うち、泊まる?」  きっと今頃、私の部屋はクーラーが冷やしてくれている。 「……お邪魔、しよかな」 「明日、一限なんだよね」 「俺、防衛任務やわ」 「起こしてくれる?」 「カワイイ寝顔堪能してから起こそかな」  またそういうことを言う。差し出された手を一瞥し、何も言わずに繋ぐ。指と指の間に滑り込んできた彼のそれは私の手の甲をゆるゆると撫でさする。大きな手、あつい手、少し湿った手。この街を守る英雄の手。  出会えて良かったと心から思う。以前、私のどこを好いてくれているのか聞いてみると、恥ずかしいから教えないと言われてしまった。彼は直接私に好きだとかそれに関わる言葉を口にすることはほとんどない。それが今日はどうだろう。彼もまた非日常な空間に呑み込まれているのかもしれない。  隣を歩く彼を見上げる。視線に気づいた彼が「ん?」とこちらを視線を寄越す。喧騒はもはや遠く、柔らかな表情の彼が街灯に照らされ淡く浮かび上がる。まぶしい、存在がまばゆい。好きだ。この人が好きだと心が叫ぶ。どうしよう、私も溢れ出して止まらない。 「好きって、止まらないね」 「せやろ」 「どうしよっか」 「ぶつけたらええんとちゃうか、スイートパイ」 「急にかぶれるなハニー」 「そういうとこ好きやで」 「はっっず」 「さっきもっと恥ずいことしてきたやん」 「それはそれ、これはこれ」  なんやそれ、と笑われる。こんな日が続くのなら結婚するのも悪くないかもしれない、なんて思う。彼と同じ空間で過ごし、同じ香りをまとって、同じ家に帰る。想像するだけでにやけてしまう。  きっと、人はこれを幸せと呼ぶのだろう。 2021.07 『夏の君が眩し過ぎて』様提出