土手に自転車を止めて川の近くに座り込む。  水面を眺めていてもなんだか落ち着かなくて、適当な小石を拾っては川に投げ込んでみた。ざあざあ、ぽちゃん。ざあざあ、ぽちゃん。  ちょっと考えたいことがあったから、ひとりになれる場所を探してたどり着いたのがこの場所だった。散歩の人もランニングの人もいるけれど、それぞれ自分の世界に入っているので実質ひとりだ。  夕暮れ時は、世界が少しだけ急いている気がする。いや、急いているのは自分かもしれない。急いているけど、立ち止まりたくて、ここにいる。 「何してるんすか?」  突然、にゅっと視界の端から誰かが生えてきた。驚きすぎると人は咄嗟に声が出せなくなるらしい、腕も変な位置で止めたまま固まってしまった。目線だけを動かし、男の子の姿を確認する。髪はセットなのかくせなのか無造作にうねっていて、ゴミを出しに行く朝くらいのラフな格好をしている。  いつの間にこんなに近くにいたんだろう。 「ここ、暗くなったら危ないっすよ」 「あ、えっと、知ってます……」 「知ってる⁉ じゃあ早く帰ったほうがいいっす! こーんなのとか、こーんなのがあっちの方でうろうろしてるから!」  男の子は「こーんなの」という言葉にあわせて、目尻を上げたり下げたりしている。誰かを表現しているつもりらしい。変顔にしか見えなくて、思わず笑ってしまった。言動と雰囲気に隔たりがない。素直そうないい人だなと思い、彼への警戒心が一瞬で消え去る。まるで魔法みたいに。  善意の言葉に気まずい返答をした自覚はある。それをこうして和らげられるのはシンプルにすごいなと思った。私にはできないことだ。  立ち上がって服についた砂を軽く払う。そして男の子の背丈が思った以上にあることに気づく。彼は何度か頷きながら「イイ顔になった」と言った。どういうことかわからなくて首を傾げる。目線の先、まっすぐな瞳が瞬いた。 「さっきまで元気なさそうでいまにも倒れそうだったから、ちょっと心配だったんス」  だから声をかけられたのかと合点がいった。同時に、そのくらい態度に出していた己を恥じる。「ちょっと考え事をしてたんです」と、余計な心配をさせてしまったことへの謝罪とお礼を伝えた。  途中まで送っていきましょーか、という男の子の提案には遠慮をし、「それじゃあ、またどこかで」と言って別れた。別れ際、めちゃくちゃ手を振っているのが見えて、人懐っこいとはこういう人のことをいうのだろうかと思ったりした。初めて会って、ちょっと話しただけなのに。とはいえ、もう会うことはないだろう。  からっとした人だったなあと思う。自分はうじうじ悩んでしまうタイプだから、無条件に惹かれてしまうところがある。友達にいたら楽しいだろうな。そんなことを考えながら、自転車で街を駆け抜ける。  あたりはすっかり夜の帳が下りていた。   ◇  もう会うことはない――と、思っていたのに。 「ほあちゃー!」  だから言ったじゃないすか! という声とともに、昨日出会った男の子が目の前の男に飛び蹴りをかます。こちらに手を伸ばそうとしていた男は、なす術もなく吹き飛んだ。  昨日とは全然違う場所なのに、どうしてここに。  夕日を背負った男の子は華麗な着地を見せると、「危ないから下がってて!」と言った。今日はオレンジ色の上着を着ている。虎のような生き物の顔が描かれた大きな背中。昨日よりもちょっとだけ凛々しく見える、ような気がした。 「こう見えてもオレ、やるときはやる男なんで!」 「ちょ、待って、」 「女子に掴みかかるなんてダセェ真似、許せねー!」 「違うの! この人知り合い! ていうか元彼!」  今にも殴り掛かりそうな男の子の腕にしがみつきながら必死で抑える。彼は拳を構えたまま「も……?」と固まってしまった。 「別れようって話をしていた、ところで、」 「わ、わかれ……話……」 「でも、助かった。ありがとうございます」  勢いを失った男の子の腕を解放し、元彼に視線を移す。吹き飛ばされた男は、信じられないものを見るような目で男の子を見ていた。 「そのスカジャン、は……獅子頭連の……!」 「ししとうれん?」  聞き覚えのない名称に首を傾げていると、再起動したらしい男の子が「チームの名前っす」と答えてくれた。どこかに所属しているらしい。そういえば、この色のこの柄、街のどこかで目にしたことがあるかもしれない。どこだったっけなと、記憶をたどろうとしたけれど、思い出せなくて断念した。 「おまえ、なんでそんなヤツと繋がってんだよ!」 「いや、べつに繋がってるわけじゃ、」 「ヤな言い方っすね。こいつ、どうします?」 「ちょっと。誤解うまれるからやめて?」  これでは私が男の子を従えているかのような認識を与えかねない。そんな事実はどこにもない。そもそも出会って二日、お互いの名前すら知らないのに。  元彼はひとしきり喚いたあと、捨て台詞を吐いて走り去ってしまった。小さくなる背中を見つめながら、「あんな人だったっけ」と思う。  構えていた拳を下ろした男の子は、「いいんすか?」と振り返った。追いかけなくていいのか、ということだろう。 「いいんです。終わったから」 「ふーん。そういうもんすか」 「そういうもんです。ていうか、あの態度見た? 信じられないよね、遅かれ早かれこうなってたと思う。スッキリした!」 「のわりには浮かない顔してるけど?」  うっ、と言葉に詰まる。円満とは言い難かったのも事実だからだ。揉み合いになりそうなところを、運よく助けてもらった形になる。あのままだったらたぶん、ヒートアップしてケガとかしてたと思う。 「…………好きなとこも、あったし。だから付き合ってたし」 「うん」 「割り切れなくて、昨日も悩んでて、」 「うんうん」  どうしてこの人にこんな話をしているのだろうと思いながらも、話し出すと止まらなかった。後悔しているのかも。未練があるのかも。別れたくないのは、自分の方だったのかも。 「いっこの好きなとこと十の嫌なとこがあって、このいっこがあるから嫌いになれなくて。ほんと、バカだなって」 「? 嫌いにならなくていいと思いますけど」 「……?」 「好きなとこと嫌いなとこがあるのは普通じゃん?」 「そう、だね……?」  そう言われればそう。え、じゃあなんで別れたいと思ったんだろう。私は何に悩んでいたのだろう。付き合っていくうちに嫌だなって思うことが増えたのが理由の一つだ。それを打ち明けたり、歩み寄ったりすることができなかった。限界を感じたのだ。 「でも十も嫌なとこあったら耐えられないっすよ! 別れて正解っす!」 「そう、なのかな?」 「そうっすよ!」  オレだったら、と彼は続ける。 「好きなとこでいっぱいにするのに」 「すごい自信だ」  ぼやきというよりは、宣言のように聞こえた。芯のある言葉。こういうことはなかなか言えるものではない。肝が座っている。この人は大成するかもしれない。 「――だから、オレにしません?」 「? なにを?」 「付き合うの」  聞き間違いだろうか。男の子の顔をじっと見つめる。彼は「何か?」とでも言いたげに小首を傾げる。  告白されている気がする。名前も知らない男の子に。 「あの。今、別れたとこなんだよね。普通そういうのってもっとこう、タイミングがあるというか、」 「別れたならいーじゃないっすか」 「いい、のか……? でもほら、まだ気持ち残ってるかもだし」 「傷心にツケコんだってことで!」  男の子はその長躯を折り曲げて顔を寄せてくる。にぱっとした愛嬌のある笑みに、毒気だけでなく何もかもが抜かれていく。何だろう、この不思議な感覚は。 「お互いのこと全然、名前も、知らないのに」 「犬上っす! 犬上照臣!」 「そうじゃなくて」  やけにぐいぐい来るなと思いながら、私も名前を告げる。何が彼をそんなふうにさせるのだろう。疑問に思いながらも、こうして好意を露わにしてくれることが純粋に嬉しかった。落ち込んでいたところだからか、よけいに。 「オレのことはこれから好きになって」 「……んん」 「いや、好きにさせる!」  ふんす、と気合いを入れる犬上くん。なんだかかわいいな、雰囲気も人柄も。そう思ってしまうということは、もうすでに絆されているのかもしれない。 「と、ともだちから、とかはどう? べつに付き合うだけが人間関係じゃないし」  そう、付き合うだけが人間関係ではない。友達だってありなわけだ、私が昨日少し考えたように。  犬上くんは「んー」と考えるそぶりを見せる。 「友達とはちゅーしたくならないし……」 「ち、ちちちゅー⁉」 「不安そうに見上げてくる顔、すげーかわいくてちゅーしたくなったんすよねー」 「な、な、なにを……!」  かっこよく助けてくれた時にそんなことを考えていたのかと、呆れるやら言葉を失うやらで、何と返せばいいのかわからない。素直すぎるのも困りものだ。 「真っ赤もかわいいっすね! ……ね、ちゅーしてみていい?」 「ダメ!!!!」 「じゃあ付き合って」 「その二択なの⁉」  じゃあなどと言っているけれど、顔を傾けて近づいてくる。言ってることとやってることが噛み合っていない。もう物理的に阻止するしかなく、手のひらで犬上くんの口元を押さえた。 「むぐ」 「ごめんなさい、不躾に触っちゃって」  でもこうしないと止まってくれないから。  そう伝えようとして、固まる。そこからはスローモーションのようだった。犬上くんが大きく口を開く。綺麗な形の八重歯が見える。皮膚に食い込む歯。手に鈍い痛み。――犬上くんに、噛まれたのだ。 「ま、まま、待てー!!」  犬の躾よろしくコマンドの絶叫が響き渡る。犬上くんは条件反射のごとくシュピッと待機の姿勢をとった。まるでいつも躾けられているみたいに。  私はといえば、びっくりしたのと驚きと混乱で、彼に何と言えばいいのかわからなくなっていた。涙もちょっと出た。 「バカ! バカバカバカ!!」 「しゅん……」 「自分でしゅんとか言わない!」  手には歯の食い込む感触が鮮やかに残っている。薄く歯型も見える。手を開いたり閉じたりしながら、次にかける言葉を探す。その間、犬上くんはずっと待っている。私の言葉を、待っている。 「ちょっと、時間が欲しい。あの、ほら、日も暮れるし、昨日危ないって教えてくれたし」  いつの間にか街は街灯が点きだしている。  犬上くんは頷くと、昨日と同じく「送りましょーか?」と言った。 「……近くまで」 「おっけーっす!」  歩き出そうとして名前を呼ばれる。顔を上げると、犬上くんはにこにこしながらこちらを見ていた。 「ちゃあんと待ちますんで、いつでも『GO』って言ってくださいね!」  あ、でも、いつまでもは待てませんから!  溌剌とした声で不穏なことを言っている。どうしよう、とんでもない人に気に入られてしまった。犬上くんに差し出された手を、取るか取るまいか悩み、――悩みを吹き飛ばすようにぐいっと掴まれる。この強引さが嫌じゃないと思ってしまった時点で、もう話は終わっている。  繋がれた手を嬉しそうに見つめる犬上くんはやはりかわいいなと思う。 2025.10