雨の中、軒下でひとり座り込んでいる男の子がいた。少し前から雨脚は強くなっていたし、この中を傘なしで走って帰るのは難しそうだ。落ち着くまで雨宿りをするのだろう。それなら、と男の子に近づいていき、使っていないほうの傘を差し出した。
ぱっとこちらに向けられた顔は、本当に困っていたのか眉が下がりきっていて、ちょっと濡れてしまっているのも相まってしょぼくれた子犬みたいだった。
「……いいんすか?」
「もういらないやつだから、あげる」
彼氏を迎えるために持っていった傘だったけれど、ついさっき別れたからいらなくなった。
別れた理由はまあ、ひとことでいえば浮気。別の女の傘に入っているのを見てしまったのだ。肩を寄せ合って、手なんか繋いじゃって。ふぅんと思ったら急激に冷めたので、こちらから別れを告げた次第である。ばっちり目撃してしまったのに、はぐらかそうとしてくるのは気分が悪かった。付き合いもそんなに長くはないし、キープにでもされたのだろう。そんなのと付き合ってた自分に腹が立つ。本性を見抜けなかった自分に腹が立つ。勝手にどこへでも行ってしまえ。最後にした平手打ちは良い音がしたけど、そこは一息溜めてグーにすればよかった。
というのを、掻い摘んで話したところ、男の子は「いい気味っすね!」と言い、八重歯を見せながらにぱっと笑った。肯定してもらえたことに、ほっとした。そっか、いい気味って思っていいんだ。ほっとして余裕がうまれると、さっきの笑顔がちょっとかわいいなと思った。
近くにしゃがみ込んで同じくらいの目線になる。しゃがみ込んでから気づいたけれど、この子、かなり大柄かもしれない。
「そう! 信じらんないよね! もう誰も信じられなくなりそう」
「うんうん」
「これが傷心てやつなんだね」
「そうそう」
「ほんと、いい気味。……これでよかったんだよ」
「うん?」
「今にして思えば兆候はあったかも。あいつ束縛ひどくてね、自分は束縛されるの嫌うくせに。ほんと、意味わかんなかった」
話し出すと止まらなかった。この子が聞き手として優秀だったのか、あるいは私がよほど心を開いたのか、推定年下の子を相手に人生相談を始めてしまった。
初対面でもう二度と会うことはないであろう相手だからこそ、赤裸々に胸のうちを開かせたところもあるかもしれない。家族だったり友達だったり、身近な人にはちょっと言い辛いことはある。
明確な答えがほしかったわけではないし、アドバイスを求めていたわけでもない。どちらかというと共感してほしかった。共感して、それで、無責任に「あなたは悪くない」って言ってほしかった。
ひとしきり話すと、めちゃくちゃすっきりした。男の子はほしい言葉を言ってくれて、めちゃくちゃいい子だった。
元彼のことはそんなに好きじゃなかったと気づいたのは、大きな進歩だ。帰ってひとりになってから引きずらなくて済む。
「ありがとね。こんなしょーもない話、いっぱい聞いてくれて」
「おもしろかったっす!」
「そ、そう……?」
おもしろいとこなんてあっただろうか。
そろそろ帰るかーと、立ち上がって歩き出そうとしたところを何かに――男の子の手に阻まれる。
「おねーさん、名前は?」
曇りのないまあるい瞳に吸い込まれそうになって息を呑む。どうしてか手を振り払えなかった。「ねえねえ」と急かされて、たじろいでしまう。このままさくっと別れるつもりだったのに、押しに負けて名乗ってしまった。
「オレ、犬上! 犬上照臣!」
立ち上がった男の子もとい犬上くんは、思っていた以上に上背があった。全然子犬じゃない。頭が上の方にある。ちょっと驚いて体が引いてしまった。
「傷心にツケコんでいいっすか?」
「……へ?」
「笑ってるほうがかわいいよ。オレなら毎日笑わせる! だから付き合お!」
あまりにも軽く放たれた言葉の勢いにつられて、かわいいなと思った笑みで迫られて、呆けたようにこくこくと頷く。頷いてから「あれ?」と思った。思ったけれど、そのときにはすでに遅く。
「じゃあじゃあ!」
声を弾ませた犬上くんに見えないはずの尻尾が見える。
「家! 連れてってください!」
◇
高校を出て就職して一年と少し。一人暮らしをしている。
元彼を家に招いたのは片手で数える程度で、元彼の家に行くことが多かった。事に及ぼうにも汚い部屋というのが心底無理で、掃除ばかりしていたし、そんな私にちょっかいをかけながら笑っている元彼に何度「手伝え」と言ったことか。片づけ終わったら疲れて普通に就寝。そんな感じで付き合いらしい付き合いはしていなかった。だからこうなったのだろうけれど。
というのも、家にあげた犬上くんはお行儀良く座ったかと思えば、「女の人の香りに酔ったかも」などと言いながら押し倒してきたのだ。顔の横に肘をつかれ、逃げ場を失う。檻に囲われているような圧迫感と、犬上くんの熱に浮かされたような顔が近づいて――。
「ダメっすよ、簡単に男をあげちゃあ」
潜めた声の掠れに思いがけずどきどきしてしまった。先ほどまでのハキハキした声音とのギャップに風邪を引きそうになる。こんな色気だされたら、普通に転がり落ちてしまう。傷心につけこむってそういうこと?
「犬上くん、は、最初からそのつもりで……?」
「んーん。フリョのジコ。でも今は、熱くてぼうっとして、頭ンなかおかしくなりそーっす」
そう言うと、犬上くんは唇を重ねた。啄むようなキスを繰り返す。こんなに簡単に流されるなんて情けない。そう思うのに、求められていることに喜んでしまう自分がいる。タイミングが悪かった、そうに違いない。犬上くんの唇と、頬を撫でる指先も溶けそうなくらいに熱く――って、そんなことある?
キスのあいまに、おそるおそる手のひらを額にあてる。すり寄ってくるのはかわいいなと思うけれど、これ平熱じゃない気がする。後頭部を引き寄せて額をくっつける。触れたところが燃えるように熱い。
「……犬上くん、たぶん熱あるよ」
「ええ? そっすか? オレ丈夫がとりえなんすけどお」
覇気がない。こんなの明らかに体調不良だ。どのくらいかわからないけれど雨に濡れたまま外にいたのだ、風邪を引いてもおかしくない。であれば、こんなことをしている場合ではない。
犬上くんの下から転がり出て、来客用敷布団を敷き、そこに犬上くんを転がす。体温計で熱を測っているあいだに、冷蔵庫に入れていた冷えピタを貼り付け、風邪薬を用意する。
「三十七度八分……」
「ばか! 寝なさい!」
「……へへ」
「何笑ってるの」
「めっちゃ心配してくれてる。嬉しいなって」
「そりゃあ心配するでしょ、結果的にうちきてよかったんじゃない?」
「そーかも」
「ちゃんと看病してあげるから。おうちの人に連絡だけはしなさいよ」
「はぁい」
思わず布団に転がしたけれど、犬上くんの家に帰したほうがいいよねと考え直す。タクシー捕まえるかとスマホを手に取ると、犬上くんの腕が伸びてスマホを持っていかれる。素早く指先を動かしたかと思えば、「オレの連絡先いれちった」と言いながら返された。
「……ちゃっかりしてるなぁ」
にこにこしながら見上げてくる犬上くんに、なんだか調子が狂ってしまう。
「付き合うとかどうとかは、元気になってからまた考えよう」
「ええー……」
「体調崩してるときは気持ちも崩れるから。いまなら冗談でしたーですませてあげられる」
「冗談なんかなわけないじゃん」
「さあね。わかんないよー、とりあえず寝な」
「はぐらかさないで」
どこかで耳にしたようなやりとりだなと思って、元彼に別れを切り出したときの己の様子に似ていると気づく。私も結局は同じような人間だったのかもしれないと自嘲する。
「あ、その顔。そんな顔、しないでくださいよ」
「……?」
ちょいちょいと手招きされて側に座る。耳を近づけるように顔を寄せると、「隙あり」と伸びてきた手に項を捕らえられた。そのままぐいと引き寄せられて、噛み付くようにキスされる。バカ、と叱り飛ばしたいのに、彼の必死な様子に閉口する。何が犬上くんをそんなふうにさせるのだろうか。
「いい子にしてるから、どこにもいかないで」
「……いかないよ」
「手、繋いで」
「うん」
そこで力尽きたのか、犬上くんはすこんと意識を飛ばした。
私はといえば、このあとの立ち回りを考えて頭が痛くなってきた。迂闊だった。そして初手を明らかにミスったなと思う。お金を握らせてむりやりにでもタクシーに押し込むべきだった。犬上くんは好意的に思ってくれているみたいだけど、そもそも出会って数時間の、今朝まで他人だったのだ。加えて彼はまだ保護されるべき立場のはず。親御さんはさぞ心配されるだろうし、見ず知らずの女の家にあがったことやその女が看病したことを知られたらどうなるか。
それにしてもとんでもない人に出会ってしまった。繋がった手は、離そうと思えば離せるけれど。
もう少しだけ、側にいてあげようと思う。
2025.10