一種の精神安定剤みたいなものなんだと思う。
百円を入れてボタンを押す。ガコン。落ちたときに角のひとつが潰れた紙パックのコーヒーと、お釣りを回収。これを毎日のようにただ繰り返す。
飽きないのかと聞かれたことがある。そこまで考えたことがなかった。もはや飲みたいという欲求すら遠く、まるでそうしなければならないかのようにボタンを押していた。そのときは「好きだから」と返しておいたが。
「また飲んでる」
ボーダー本部基地内、フロアにて。
声が落ちてきて視線を上げるとスーツ姿の彼、犬飼澄晴がいた。今はトリオン体のようだ。任務を終えたあとなのか、個人ランク戦でもしていたのか。隣にぼふんと座って頬杖をつくと、彼は続けた。
「ほーんと、飽きないねえ」
「うん、まあ」
「そんなに好き?」
「……最初は好きだったけど、もうわかんない」
「そっか」
犬飼は私に話しかけてくれるが、私から彼に話しかけたことはない。いつ見ても笑みを浮かべているが、目が笑っていない。彼には得体のしれない怖さがあった。
最初に話しかけられたのも、たしかこんなふうにひとりでコーヒーを飲んでいるときだった。「見ない顔だ」と話しかけられたのだ。それもそのはず、私は一方的に彼が二宮隊のガンナー、犬飼澄晴であることも同い年であることも高校が違うことも知っているが、隊員としての私はB級に上がったところだったのだから。それからちょくちょく話しかけられるようになった。それも決まってここでひとり、コーヒーを飲んでいるときだ。知人以上友達未満。私たちの関係に名前はない。
彼と話すときはいつも緊張してしまう。まるで蛇に睨まれた蛙だ。彼はそう思われているなんてことは知らないだろう。今もそうだ、緊張のあまり無駄に姿勢良くしてしまっている。手にも変な力が入り、紙パックがペコッと少し潰れる音がした。
彼は形の歪んだ紙パックを見ると、首を傾げながら「好きかどうかわからないならやめちゃえば?」と言った。
「えっと、なに、」
「離れてみたらわかることもあるんじゃないのって話だよ」
急にそんなこと言われても、はいそうですかじゃあやめます、なんてなるわけがない。ルーティンのひとつだ、自分の一部だ、精神安定剤のようなものなのだ、これがないと……これがないと、何?私は今、何を思い浮かべようとしていた?
「これがないと生きていけない――とでも思った?」
彼は笑みを深めながら言う。
「生まれたときは何も持ってないのに?なくても生きてきたし、それならなくたって生きられるよね?」
「でも、」
反論できない。そうだ、生まれたときもそれからも必要なかった。いつから飲み始めたの覚えてないけれど、いつからかそうしなければと思いこんでいた。ストローの先を噛む。噛みすぎてもう真っ平らだった。
「口寂しいっていうなら、おれが助けになれるかも」
「……どうやって、助けてくれるわけ」
「そうだなぁ〜〜キスでもする?」
冗談か本気か、彼の表情からはわからない。わからないけれど笑っていないその目に、彼に感じる怖さごと全て飲み込まれて。気づけば私は口寂しいのだとこぼしていた。彼は笑みを深めると「犬飼了解」と呟いた。
柔らかな前髪が触れる。鼻先が触れる。こんな近くで人の体温を感じるのは初めてだった。いつの間にか彼の手は項に添えられ、顔を背けることができなかった。最後の逃げ道を封じられたのだ、自分は悪くないと言い聞かせながら、彼の唇を受け入れる。押さえるように数度触れ合うだけ。最後に唇を舐められた。
離れていった彼は「にっが」と顔をしかめる。そして私が手に持っていた紙パックを取り上げた。
「はい没収。もうにがいのやだ」
「もうって、次、あるの」
「?当たり前でしょ」
何言ってんの?という顔でこちらを見るが私の方が言いたい。何を言っているのか。
「これに頼るなよ。次飲んでるの見かけたら問答無用で舌突っ込むから」
ぽかんと彼を見る。語気の強さと表情が合っていない。自分で言いながら照れたような様子の彼を見つめながら、パズルのピースがはまったような感覚があった。ああ、なんだ、もしかして心配してくれていたのか。わかりにくいそれに気づき、思わず笑みがこぼれる。もしかしたら彼の前で笑ったのは初めてかもしれない。もう得体のしれない怖さは感じなかった。器用なのに、なんて不器用な人。
「じゃあ、わざと飲んじゃおっかな」
「なに、舌突っ込まれたいの?」
「照れてるじゃん、できるの?」
「試してみる?」
「冗談だよ」
「たちわる」
「でもきみは見捨てない」
「……そーだよ、悪い?」
「ううん、ありがとう」
やめてしまったらどうなるのかわからないけれど、彼が側にいてくれるなら、どうなっても大丈夫だと思える。生まれたときは何も持っていない。これからも必要のないもの。迷ったらきっと彼が助けてくれる。
2021.06