初めて人を殺した。  いや、人だったものを殺した、が正しい。思っていたより刃筋は通らなくて、思っていたより血がたくさん出て、思っていたより呆気なく死んだ。少しずつ冷えていく限りなく人の形をしたものに触れ、何度もごめんなさいと呟いた。  産み出すものを親とするなら、呪いの親は間違いなく人間だ。人間がいなければ呪いはうまれない。呪いがうまれなければ人間はいなくならない。このどうしようもない現実と向き合いながら、呪いを祓い、人を助けながら、人を殺している。 ◇  肉を斬り骨を砕く感触が、数日経っても消えなかった。呪術師になれば遅かれ早かれ直面することだという。入学前にそれを聞いたとき、自分は大丈夫だと思った。既に腹は括ったのだからと。でも、――大丈夫なんかじゃなかった。ああ、まただ。思い出してえずく。胃の中はもうからっぽだった。  もっと強かったら。もっと覚悟があったら。そうすれば。無意味なたらればばかりが浮かんでは消えていく。  傍らに置いた呪具がことりと音を立てた気がして。情けない主人でごめんね、と口の中で呟いた。 ひとり、校舎のすみで蹲る。数少ないクラスメートの彼らに、大好きな彼に、こんな情けない姿を見られたくなかった。  ふと、影が落ちてきて。視界の端に見慣れたシューズが入り込む。声もかけずにその場をうろうろしたかと思えば目の前でおもむろに膝をついた。そうして壊れ物を扱うかのごとく、そうっと頭を撫でてきた。私は、この手を知っている。大きくてあたたかくて、大好きな人の手。 「なんで黙ってるのさ」 「なんて声かけたらいいのかわかんねーから」 「あは、虎杖のそういうとこ嫌いじゃないよ」  視線を上げると、すぐそこに心配そうな虎杖の顔があった。彼にはとくにこんなところを見られたくなかった、けれど彼が側にいると安心するのもまた事実で。 「人をね、殺した」  ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。虎杖はただ静かに聞いていた。 「人に近い形をした呪霊かなって。そしたら祓っても消えなかったから人間だったんだと思う。血も、出てた。人を助ける術を学ぶためにここに来たのに、助けられなかった。あの瞬間の感触がまだ残ってる。力も、覚悟も、何もかも足りなかった。いますごく、苦しいよ、虎杖」  もたれかかるように体重を預けながら、虎杖の制服をぎゅうと握りしめた。泣きたいけれどそれはなんだか違う気がして、ぐっと唇を噛みしめる。 「それが普通の感情なんだって。慣れるもんじゃないし、慣らさなくていい」  五条先生から聞いたよ、よく頑張ったな、と。背中に回された虎杖の腕が赤子をあやすように動いた。私の髪を梳きながら彼は言う。 「そうやって強くなるんだろ。次は助けられるように、後悔しないように」  最初から強い奴なんかいないよ、と虎杖は言った。彼の優しさが毒のように薬のように全身をゆっくりと巡っていく。ありがとうと小さく呟いた。明日からまたがんばる、と。それを遮るように「でも、」と彼は続ける。 「俺はやめてほしいなって思ってるよ」  突然の言葉に、弾かれたように虎杖を見る。 「普通に生きて、幸せな家庭を築いて、そんで正しく死んでほしい。ここにいたらそれは叶わないからさ」  からりと笑う彼に、自分を勘定に入れない彼に、悲しくなってそして一周まわって無性に腹が立った。私が虎杖との未来を望んでいると知っているのに。それなのに。 「ばか!」  虎杖の鎖骨あたりに頭突きした。 「ばかばかばか!」  何度も何度も。ええー、と困惑しながらそれをすべて受け止め、その上よろめきすらしない彼に複雑な気持ちになる。 「なに自分は関係ないですって顔してんの!?虎杖も一緒じゃなきゃやだ!!」 「そう言われてもなあ、俺、」 「なんで生きること諦めちゃうの、俺が幸せにしてやるぐらい言えよばか!!」 「できることならそうしたいけど」 「してよ!したいじゃなくてするって言え!」 「ははっ」  ふいに虎杖が身動ぎ、笑い出した。おかしいことも面白いことも言っていないのに。  体を離して睨めつけると、彼は笑顔を浮かべながら「元気でた?」と宣った。そして掬うように私の片手をとると、そのまま手の甲に唇を触れさせた。思わず息を止める。少しかさついた唇。全ての神経が集中したかのように妙に敏感になる手の甲。かと思えば手のひら側を指先で擽られる。きっといまは恥ずかしさと焦りと動揺で赤くなっているに違いない。数度繰り返したあと、上目遣いにこちらを見上げる虎杖と目が合うと、彼はにひ、と笑った。 「上書きしたった!」  あ然としていると、「だからさ、綺麗な手だよ」と掴んだままの私の手を撫でた。非術師の女の子にはないかすり傷や呪具を扱ってできるマメやタコ、そして血に汚れたこの手。決して綺麗なんかじゃない。それでも一人だけでも綺麗だと言ってくれるのは、嬉しい。  いつの間にかあの感触は薄れていて。たしかに虎杖に上書きされたのかもしれなかった。彼に手を引かれて立ち上がる。きっともう大丈夫だと言い聞かせながら、二人で歩き出した。 2021.02