ここはネイバーの出現するまち。今は出現場所が限られているけれど、数年前にはそれらによる大規模な被害があった。このまちから逃げるでもなく戦う術を身につけるでもなく、ただ生きているだけの私たち。突如設立された組織のボーダーに守ってもらって、何かあれば手のひらを返して糾弾するだけの私たち。時折どこからか響いてくる爆音や閃光にはもう慣れてしまった。私は、そんな世界が嫌だった。そんな自分が嫌だった。けれど変わろうとも変えようともしなかった。    かわった時期にやってきた空閑遊真という男の子。自分たちとは異なる生い立ちの転校生に興味を示さないはずがなく、クラスメートはあれやこれやと質問を重ねていく。数日経ってもその勢いは衰えなかった。迷惑そうなそぶりを見せずにひとつひとつ返事をする彼を眺めながら、律儀だなあなんて思う。  ふとたずねたそれは、世間話のつもりだった。 「空閑くん、このまちはどう?」  毎日囲まれて大変だよね、ちょっとうるさいでしょ。でもこのまちは良い人ばかりだから、すぐに慣れるよ。へらりと笑いながら言った。  外国から来たという空閑くんは不思議なひとだ。本気か冗談かわからないほど世間に疎い様子を見せたかと思えば、時折すべてを悟ったような物言いをする。私たちが日々話題にするものや人には一切の興味を示さない。話を振れば一応の相づちは打ってくれるけれど。  紛争地帯で生きてきたらしい彼は、私たちの知らない何かを知っていて、私たちには見えない何かが見えている。 「不思議な感じだな。こんな綺麗な建物に皆同じ服装で通う、なんてなかったからな。おれがいたところは、いつも硝煙と鉄のにおいがしてたよ」  彼は眉一つ動かさずに、まるで何かを見ているように言う。ここではない、どこか遠くを。その表情と声の静けさは、なにか一つ間違えたら崩れてしまいそうな危うさがあった。ふと目が合う。燃えるように赤い瞳がこちらを見ていた。  彼の触れてはいけないものに触れてしまったかもしれない。私はそれ以上話を続けることができなかった。    委員会が少し長引いてしまい、あわてて帰る準備をして昇降口に向かった。帰りが遅くなるとネイバーに襲われる危険が高まるからとかなんとか。そうは言っても先日、学校もまちも襲われたばかりだ。どこにいたって危険性は変わらない。などと思いながら、人も疎らな校門を駆け抜ける。その勢いのまま走っていると私を呼ぶ声が聞こえた。立ち止まって振り返った先には、委員会が始まる前に別れのあいさつをした空閑くんがいた。彼は「よっ、さっきぶり」なんて言いながら片手を挙げて近づいてきた。 「あれ、帰ったんじゃ……?」 「オサムを待ってたんだ。けど先に帰れって言われてしまってな、ひとりで帰ってるところでした」 「三雲くん……また何か面倒事引き受けたのかな」 「かもな。あいつは面倒見の鬼だから」  空閑くんが転校してきてからまだそんなに日は経っていないのに、彼はクラスメート歴の長い私よりも三雲くんのことをよく知っているようだ。三雲くんの話をするときの彼の表情は穏やかで、二人の間に何かあったことは明らかだった。  家どっち? と聞くとだいたい同じ方向だったから、途中まで一緒に帰ろうと言った。少し間を空けて空閑くんと並んで歩く。小柄な彼の動きに合わせて白い髪がふわふわと揺れていた。  歓楽街の近くに差し掛かると道が明るくなってきた。街灯だけではないきらびやかなあかり。人通りが増え、喧騒も近づいている。私たちにとっては夜が近づいているが、ここはこれから動き出す。ネイバーがいようがいなかろうが、それは変わらないだろう。通学路とはいえ少しの気まずさがある。ふと、道の端で抱き合う二人組が視界に飛び込んできた。抱き合うだけならまだしも、顔同士をくっつきそうなくらいに近づけて体を触り合っている。見てはいけないものを見てしまったような気がしてあわてて顔を背けると、空閑くんが「どうした?」と覗き込んできた。そして私越しに二人組を見やると顔色一つ変えずにふむと頷く。 「知り合いか?」 「ううん、全然知らない人」 「そうか」  見ないようにしようと下を向いたのに、空閑くんの「あ、」という声でもう一度見てしまった。――キスを、している。唇を食べるように、舌が踊るように、くっついては離れてを繰り返している。体の温度が急激に上がっていくのがわかった。どうしよう、はやくここから逃げないと、どこに、どっちに。おろおろしていると、ぱっと視界が黒に染まった。耳元で「行くぞ」と空閑くんの声がして。どこかへ歩き出した彼は無言だった。そのあいだに私は落ち着きを取り戻すことができた。  空閑くんが立ち止まり、連れられていた私も立ち止まる。彼はようやっと隠していた目元を解放してくれた。思っていたよりも近いところにある空閑くんの顔に動きが固まる。目をそらそうにも赤い瞳に縫い止められてそらせない。何を思ったのか、彼はさらに顔を寄せてくる。  何か、何か言わなければ。脳裏を過るのは先ほどの光景ばかりで。唇からこぼれ落ちたのは、下手するとおねだりに聞こえかねないものだった。 「が、外国では、あいさつ、なんだよね」  言ってからしまったと思う。こんなの、したいって言ってるようなものだ。至近距離で瞬く鮮やかな双眸。ふわふわと揺れる眩しい白。彼は笑みを浮かべると「おれたちもアイサツ、するか?」と聞いてきた。妖しく光る彼の目に宿るものを、私は知らない。するりと頬を撫でる指先は、私の中の何かを誘うように動く。触れる吐息のあつさまでわかるほど近いのに、彼のことはわからない。知り合って間もない、付き合ってもいない、そんなひとと流れでできてしまうものなのか。なんだかざわつく、心の奥のほうが。ここではないどこか遠くの外国で暮らしてきた彼のことは、きっとこれからもわからない。 「しないよ」  空閑くんの口を手のひらで塞ぐ。 「ここは、日本だから」  む、と彼の掠れた声が漏れる。彼の突き出された唇の形が手のひら越しにはっきりとわかる。やわからくてあたたかくて、少し湿っている。呼吸のあつさでどろりと溶けてしまいそうだ。心臓がこれでもかと暴れているのをなんとか抑え、努めて平静を装う。ふうん、と彼の目が眇められた。 「ね、だから離れないと」  小さい子に言い聞かせるように。声が少し震えたかもしれない。彼は寄せていた体を離しながらこれはウソじゃなさそうだ、とかなんとか呟いている。ほっと息をついたのも束の間、空閑くんに手を引かれた。名前を呼ばれて顔を上げる。妖しい雰囲気を引っ込めた彼は、いたずらっ子のようににっと笑った。 「ちょっと付き合ってくれ」    ◇    二人で誰もいない公園のベンチに座りながら買った肉まんを頬張る。  先ほど寄ったコンビニで会計をしようとして札束を取り出した空閑くんにはさすがに頭を抱えた。そんなものドラマの中でしか見たことない。あわててしまうように言い、彼のぶんも支払った。 「かたじけない」 「札束なんてぽんぽん出したらだめ」 「ふむ、オサムにも言われたな」 「なら三雲くんの言うこときかないと。使うなら一枚ずつね」 「オサムはそんなこと言ってなかったぞ」 「使うなら、だよ」  そうか、と言いながら彼はかばんの中の札束をいじる。わかっているのかわかっていないのか。  先に食べ終わり、横で揺れる白に目を向ける。付き合ってくれと連れてこられたはいいものの、もうとっくに日は暮れている。そろそろ帰らないといけないけれど。彼の本題は何だろう。  空閑くんは頬を膨らませて咀嚼している。その様子がリスみたいで可愛いなあと思いながら眺めていると。視線を感じたのか、真っ赤な双眸がこちらを見上げた。そして。 「おまえ、何か隠してるだろ」  おれはウソがわかるんだ、と彼は言う。  咄嗟に息を呑んだ。いや、でも私は彼にウソをついたことはない。なぜ隠している何かがあるなんて思ったのだろう。 「嫌いか? 自分のこと」  はっとして彼を見る。うまくやってきたつもりだ。馴染むように、同調するように、おかしなこのまちで住人Aとなれるように。嫌いな自分を見ないように。  彼は、私の言葉にはよく黒いもやがかかっていると言った。本心でないことを日常的に口にしているのだろう、と。 「なんでだ?」 「空閑くんらしくないね、そんなこと聞くなんて」 「そうだな。でも息苦しそうなおまえを放っておくほど薄情ではないよ、おれは」  まだこのまちに染まっていない彼ならばと、ぽつりぽつりとこぼしていく。自分のこと、今まで思っていたこと、そうして言葉を重ねながらまた、言うだけの自分に嫌気が差す。じわりとあふれてきたもので視界が歪んでいく。 「なんだ、簡単なことじゃん」  簡単なこと。思いがけない言葉に、立ち上がった空閑くんをぽかんと見上げる。彼はこちらに手を差し出すとこともなげに「ボーダーに入ろう」と言った。まるでそうすべきだとでもいうかのように。 「ボーダーに入って、力をつけろ」  力をつける。それは戦う術を身につけること。世界の広さを知ること。生きるための手段を増やすこと。ただ生きているだけの日々に、終止符を打つこと。  おれもボーダーに入るんだ、と彼は言う。 「一緒に入ろう」  変われない、変わりたい、変わらなきゃ。  気がつけば差し出された空閑くんの手に自分の手を重ねていて、私の口は「うん」と紡いでいた。不敵な笑みを浮かべた彼にぐいと手を引かれて、よろめきながらも立ち上がる。 「おまえが自分を好きになれるように、おれも手伝うよ」 「なれるかな。自分のこと、好きになれるかな」 「それを決めるのはおまえ自身だ、おれはそのために少し背中を押すだけだからな」 「うん」  もう一度、うんと頷く。空閑くんと繋がっている方の手があたたかい。ぎゅうと握ると、彼も握り返してくれた。彼の言葉に心の中の何かが晴れたような気がする。そしておぼろげながらも空閑くんへ向かう感情の名前に気づいた。  ボーダーに入って、力をつけたい。嫌いな自分を好きになりたい。自分を嫌いじゃなくなったそのときは、空閑くんのことをもっと好きになっている。    そうしてぎりぎりで願書を提出、いくつかの入隊試験を経て、正式入隊の日。空閑くんの本当の姿の、ほんの一部を知ることとなる。 2021.06