世界は大きく二つに分けることができる。「自己」と自分以外の「他者」だ。自己を形成するためには他者が必要であり、他者を認識するためには自己が形成されていなければならない。自己と他者の両方があってはじめて「世界」を知覚することができる。そして他者と関わることで世界は際限なく広がっていく。私たちは世界というものは広いのだと知ることができる。そうして関わりのある他者が増え、自分は社会の一員であるという自覚が芽生えてくると、飲み込む言葉や感情が増えていく。思いやりや配慮と表されるそれらは、秩序ある社会を保つためには必要なものだ。この世界は一人ひとりの不断の努力の上に成り立っている。表面上はうまくいってるように見えるけれど、個人単位で飲み込んだ言葉や感情は見えないところで残っている。捨てることも燃やすこともできない。それらは雪のようにしんしんと降り積もっていく。しずかに、ゆるやかに、しかし質量をもって。そうしてある日突然、雪崩を起こすのだ。すべてを呑み込むように崩れ落ち、止めることなんてできなくて。理性的な己はその中に埋もれてしまって誰にも助けてもらえない。――だから、私はたぶん、運が良かった。
鮮やかな赤が驚いたように見開かれる。けれどそれはほんの一瞬で、次の瞬間には呆れたような表情に変わった。ため息も聞こえた気がする。自分の意思に反して溢れる涙としゃくりあげるような呼吸で、小さな音や声は掻き消されている。
本当に偶然だった。今日は学校がなくて、誰とも約束してなくて、だからふらふらと街を歩いていただけだった。ふと見上げた先、雲一つない青空が目に沁みたから影に入って、目の前を通り過ぎていく笑い合いながら歩くひとたちを見て。もういいかなって思ったのだ。私、何してるんだろうって。心の中の積み上げていた何かが、ぐらりと崩れ落ちていく感覚があった。うなりを上げて全て呑み込んでいくのを、どこか冷静な私は俯瞰しながら「あーあ」なんて思う。次第に何も考えられなくなって、世界から色が褪せていって。そうしてぼんやりしているところで声をかけられた。彼――空閑遊真の姿を認めて、すくわれたような気がした。彼は埋もれた私を見つけてくれた。
「だから我慢するなって言っただろ」
まだ変声前のかすれ気味な声が鼓膜を揺らす。まるで助けを求めて伸ばした腕を力強く引っ張り上げてくれたようだった。息ができる。感情が揺れる。世界が少しずつ色づいていく。
「ほら」
空閑くんが腕を広げる。遠慮するなと言われると、身体は引き寄せられるように動き出す。いいのかなと思いながらも腕の中にぽすんと納まった。彼は私よりも小柄で、服の上からでもわかるほどに華奢な身体をしている。聞いた話だと、車にはねられてもピンピンしているくらいには頑丈らしい。そんなふうには見えないけれど、あり得ない話ではないのかもしれない。
彼は外国にいたのだと言っていた。それも紛争地帯に。今日日、地球の裏側で起きたことが数分も経たないうちに全世界に拡散されるような時代だ。彼のいたところを聞いて調べて話題の一つにすることだってできるのに、それをしようとは思わなかった。思えなかった。彼が話す外国は、教科書に載っているものともテレビやSNSで知るものとも違う気がして。彼のいたという外国は本当に存在するのだろうか。何かがズレているのだ、彼と私たちとでは。それが何かはわからないけれど。彼は言うこともやることも極端で危なっかしいのに、目を離すことができない。いつの間にか、そんな姿に目を奪われていた。
知ってるか? と彼が話し出す。
「ハグはストレスを減らす効果があるらしいぞ」
「ほんとに?」
「さあな。試してみたらわかるだろ」
色素の薄いふわふわの髪が頬をくすぐる。すり寄るようにして抱きつくと彼の手が背中にまわる。そしてゆっくりと撫でてくれた。彼と出会ってからまだそんなに経っていない。好きなものも嫌いなものも知らないし、休みの日に何をしているのかも知らない。そもそも友達にすらなれていないと思う。少し話すだけの知り合い程度だ。なのに彼は私の様子をよく見ていたらしい。「おまえ、危なっかしいな。言いたいことがあるなら言えよ、口にしなかったからって消えるわけじゃないんだから。たまには吐き出してわがまま言っても、誰も怒らないよ」と、先日言われたばかりだった。
「これで見えない。思う存分泣いてもいいぞ」
「なんかやだ、そういう、泣かせるみたいなの」
「強がるなよ」
「強がってないし」
「大丈夫平気なんでもないって言ってたのは誰だっけな。それ、美徳ってやつか?」
「……どうだろ、知らない」
「ふむ、おれにはさっぱりわからん感覚だ」
強がって我慢して耐えて飲み込んで。それが自分のためには良くないことだとわかっているけれど。
そうしなければならないときというのは否応なしに存在する。私たちは他者と繋がり、助け合って生きている。私たちはひとりじゃ何もできないから集団を作る。そこには法があり、秩序がある。私たちは私たちのために法を守る、秩序を乱さない。そうして生きていかないといけない。そうしないと生きられない。
繋がりが増えると、加速度的に飲み込むものが増えた。ひたすら飲み込んだものはついに限界を迎え、崩れ落ち、溢れ出す。こんなことで涙なんて流したくなかった。誰かに助け出してほしかった。こんなところ見られたくなかった。誰かに受け止めてほしかった。
「くやしい」
「くやしい?」
「こうして泣くことしかできない自分がくやしい」
「それって悪いことか?」
「知らない」
「さっきから知らないばっかりだな、おまえ」
「知らないものは知らないもん」
それなら空閑くんが教えてよ、私の知らないこと全部。
そう言うと、小さな肩が揺れた。なにがおかしいのか、彼は笑っている。身体を離して睨めつけると、手が伸びてきて優しく目元を拭われた。
「いいよ。その代わり、おれの知らないことはおまえが教えてくれ」
「い……いやだ」
「む、つれないな」
唇を突き出し、彼はおどけた表情を見せる。
「じゃあ、おまえの全部。おれが受け止めてやるよ」
「いらない」
「ゴウジョウだなあ」
「だって、」
私の中で空閑くんの存在が大きくなっていくのがわかる。けれど彼は? 彼の中に私の存在はどのくらいの割合を占めている? きっとそんなになくて、今日だって偶然と彼の気まぐれが化学反応を起こしただけだ。彼は私の世界を彩ってくれるけれど、私は彼の世界を彩ることはできない。
じわりと滲んだ視界に赤が映る。私の持っていない色。鮮烈な彼の印象に違わぬ色。凛とした彼によく似合う色。その目で見られたら、逸らすことなんてできなくて。
「ずるい、見ないで」
「それはできない」
「ほっとけばいいのに」
「近くに面倒見の鬼がいるからかな、ほっとけなかったんだよ」
「お節介」
「褒め言葉だな」
「ばか」
「こら、おれはばかじゃないぞ」
「…………好き」
空閑くんの返事が途切れた。
するりと口から零れ落ちた言葉は、私たちの間を漂っている。見つけてくれた、声をかけてくれた、受け止めると言ってくれた。そんな彼の眩しさにくらくらした。雪崩のように崩れ落ちたものがゆっくりととけていく。捨てることも燃やすこともできないそれは、些細なことで雪解けを迎えた。彼のことはほとんど知らない。けれど、嗚呼、私はたぶん空閑くんが好きなんだと気づいたときには言葉にしていた。こんな、情けない姿を見られながら自覚するものでも言うものでもないはずなのに。
「好き」
もう一度、言った。本日二度目の、彼の見開かれた目を見つめながら。
「……驚いた」
「うそとかじゃなくて、ほんとだから、だから、」
「うん」
わかってるよ、と彼は言う。私の言葉を遮るように。涙は止まっていた。鮮やかな赤がゆるやかに細められているのがはっきりと見える。小さな声で何かを呟いていたけれど、聞こえなかったふりをして空閑くんを腕の中に閉じ込めた。その繋がりを離さないよう、しっかりと。
2021.10
『同じ台詞でwtプラス』様提出