男の夢を見た。  そのひとは少し小柄で成長期も声変わりも遅かった。誰にでも気さくで、ちょっと意地悪で、いつも笑っている。クラスの人気者だった。みんな彼と遊びたがった。もちろん私も。そうして中学生になり成長期をむかえ、変声期をむかえた彼は、かっこよくなって、告白されたからって知らない先輩と付き合いはじめて、それで。どんどん知らないひとになっていった。──初恋の男だった。  ◇ 「隈ができてる」  隣の席の蔵内和紀に覗き込むように目線を合わせられ、思わずのけぞってしまう。  この男はなにかと気にかけてくれるし、声をかけてくれる。初めて出会ったときからずっと。今だって、覗き込むだけでなく親指の腹で目の下を撫でている。それにどう反応すればいいのかわからず、やんわりとその手を押しのけた。  最近夢見が悪いからかもと言ったら、彼はおもむろにカバンの中を漁り、リラックス効果のあるアロマや紅茶をくれた。生徒会への差し入れの一部らしい。そんなのもらえないと断ると、「余ってしまったから捨てるのももったいなくて」と困ったように眉を下げながら言うので、有り難くいただくことにした。私は誰かの困った顔に弱いらしい。 「君はどんな夢を見るのかな」 「いつもはあんまり夢とか見ないよ」 「そう……最近の夢で何か覚えてることはないのか?」 「うーん……」  彼に言ったところで、ではあるのだが。なんだか気恥ずかしくて覚えていないふりをした。なんとなく気分が悪いから悪い夢を見てるんだと思う、というふうに。初恋の男の夢を見ていますとはさすがに言えない。  蔵内和紀。六潁館高等学校の現生徒会長。私の隣の席。選択している授業の関係上、あんまり隣感はないけれど、ほぼ毎日HRで顔を合わせている。  この「ほぼ」というのは、彼は不定期で公欠になることがあるからだ。ボーダー隊員として任務にあたっているからだとか。六潁館ではちょっと珍しい。いや、あんまり珍しくないかも、副会長もボーダー隊員らしいし。私はよく知らないけれど。  蔵内とは一年の頃からの縁で、同級生のなかではよく喋るほうだ。だから仲はそれなりに良いと思う。スキンシップもないことはない。手を繋いだり抱きしめたりというものではなく、少し触れる程度のものだからかわいいものだ。それを許す私も私なのかもしれないけれど。だってべつに拒絶するほどのことではないと思ってるから。  そんなこんなでたまに相談なんかもしたりするので、いつもと特別違うこともヘンなこともない。これは普通だ。蔵内と私の日常の一部。  そもそも初恋の男のことは数年前にフッ切れたはずなのだ。だからこの数年、思い出すこともなかったのに、どうして今になって。  虫の知らせとでもいうのだろうか。  ◇  嫌な予感は往々にしてよく当たる。 「久しぶり」  校門を出たところで親しげに声をかけてきた――初恋の男、だったひと。進学先のことは言ってないと思うんだけど。友人の誰かから聞いたのかもしれない。あれから三年近く経っているのに、いまさら会いに来るなんてどうしたんだろう。  知らないふりをしようとしても名前を呼ばれてしまえば無視するわけにもいかず。 「何しにきたの」 「顔見に来た」  そうして輝くような笑顔を見せる。誰に対してもやさしさをふりまくこのひとが好きで嫌いだった。唯一にはしてくれない、なれないと気づいてやっと離れられたのに。こっちの気持ちを知ってか知らずか、「なんか食いに行く?」なんて呑気に聞いてくる。 「……このへんのこと知らないくせに」 「おう、だから教えて?」  行くとしたら大通りの喫茶店かなぁと考えながら、ふと校舎を見上げると人影が動いた。他の学校のひとと交流があるのを見られるのは少し気まずくて俯いてしまった。ガラス越しに見えたのが誰なのかわからないまま。  道すがら経緯を聞いた。曰く、夢を見たのだと。それも私の夢を。だから会いたくなった、と。それだけのために人づてに進路を聞き、市を越えてきたのか。  以前ならば、彼に好意を抱いていた時ならば、手放しで喜んだだろう。けれどそうではない、だから――おそろしい、と思った。私もあなたの夢を見ています、なんて口が裂けても言えないと思った。  いまは誰とも付き合っていないこと。だから気軽に会いに来られたこと。また前みたいに仲良くするきっかけが欲しかったこと。 「そうだ、連絡先教えてよ」  当時はラインをやっていなくて、メールを使っていた。彼のメアドは知っているが、こちらから連絡をとったことはない。  答えられないでいると、頬に手が添えられて、彼が覗き込んできて。今日、初めてまともに目を合わせた。その奥にくすぶっているものの名前を、私は知りたくない。 「ね?」  だめだ、と思った。頭の中で警鐘が鳴る。こんなことしてくるひと、だめだ。  数歩後ずさって、小さな声で「ごめんなさい」と言った。このひとはもう、私が好きだったころの彼じゃない。  彼の手が伸びてきてもう一度触れようとしたとき、男が――蔵内和紀が割り込んできた。 「取り込み中のところ申し訳ない。これから用事があるので日を改めてもらえませんか」  声は変わらず穏やかなのに、少し息が上がっている。いつも綺麗にセットされている前髪が少し乱れている。肩を抱く手に力が入っている。  行き場を失った彼の手が引っ込められる。無言で蔵内と私を交互に見て「そうですか。ではまた」とあっさり行ってしまった。 「まだ、ふるえてる」  肩に添えられていた手が離れ、頭を撫でる。何度も何度も、大丈夫だというように。引き攣っている私を安心させるように眉を下げて笑っている。 「ちょっとこわかった、から」 「そうか……間に合ってよかった」  校舎に見えた人影は蔵内だったらしい。学校を出たところで困っている様子の私を見かけてあわてて走ってきたのだとか。そういえばあのあたりは生徒会室のある廊下だった気がする。 「あのさ、」 「うん?」 「蔵内ってよく覗き込んでくるでしょ、こうやって、目を合わせるみたいに」 「んん? そうだったか?」 「そうだよ。でね、さっきそれされて、めちゃくちゃ嫌な気持ちになった。蔵内にはそんなこと思ったことないのに」 「それは……喜んでいいことなのか……?」 「うん」  そして夢見が悪い原因がさっきの男だったことを話した。初恋の男だったということも。 「妬けるな」 「そう?」 「そう。でも教えてくれてありがとう、君のことをひとつ知ることができた」 「いらない情報じゃない?」 「いらないものなんてないさ、全部知りたい」 「欲張り」 「知らなかった? 俺は欲張りなんだ」  蔵内は眉を下げて笑う。誰かじゃなくて、蔵内のその顔に弱いのだ。頭を撫でていた手は、手持ち無沙汰になってしまったのか私の髪を梳いている。  もしかしたらはじめから仕組まれていたのかもしれない。じわりじわりと、蔵内だったら大丈夫なように。でもそれでいいと思う自分がいる。いまさらそんなのどうだっていい。  だからもっと私を見て。触れて。甘やかして。――なんて、私もたいがい欲張りだ。  蔵内の腕の中、彼の香りで掻き消されていく。きっともうあの男の夢は見ない。会うこともない。やさしい手のひらがうなじを這っていく。 2023.09