しまった、と思った。  思わずばちんと口に手をあてる。私は彼をその名で呼んだことがない。振り返った彼はきょとんとした顔でこちらを見ていた。  冷や汗が止まらない。彼の目を見ることができない。心臓の音がうるさい。 「な、なんでもない……です」  そう言い残して逃げた。  制止の声が聞こえたが無視して走る。今はトリオン体だから逃げ切れると思ったのだが、そう簡単に事は運ばず。逃げ込む場所はなく、少しずつ距離が縮まり、とうとう壁に追い詰められた。  普段の言動からつい男の子扱いをしてしまうが、その実彼は私よりも背が高く、体も少年から青年へ変わろうとしているところである。その身で行く手を阻む彼をちらりと見上げると、大きな目が数度瞬いく。そしてゆるりと眦を下げた。 「やっと、名前で呼んでくれましたね!」  嬉しそうな声を上げる彼に、無言を返す。違う、違うのだ、いつもは違う。私は彼を南沢と呼んでいる。それがたまたま聞こえてきた音につられて、「海」と呼んでしまっただけなのだ。ただそれだけ、他意はない。  私と南沢海は師弟関係だ。  攻撃手繋がりで知り合ったのだが、その後の対戦で勝ち越すと、彼は弟子入りを志願した。私も攻撃手とはいえ、誰かに何かを教えられるほどの技術も経験も持ち合わせていない。この勝ち越しだって辛勝だ。丁重に断ったのだが、顔を合わせるたびに志願してくるのだからたまったものではない。攻撃手高ランカーを目の前にして迷わずこちらに飛んできたときは思わず悲鳴を上げた。このようなことを何度か繰り返した末、周りの後押しもあったことから、私のほうが先に折れてしまった。  そうして南沢を弟子にしたはいいものの、弟子なんてとったことがなく、何を教えたらいいのかわからない。とりあえず模擬戦をしたり、彼の癖を指摘したり、戦術的な問いを投げかけたり。とはいっても、彼は大部分を直感で戦っているため、思考が入ると動きが鈍り隙ができる。実力はあるのだ、のびのびと戦える環境と隊としての連携の意識を持てば、きっと彼はもっと強くなる。  そのうち、ちょっと手はかかるものの弟子の存在を特別に思うようになっていた。基本的にボーダー本部基地内でしか会っていなかったが、次第に外でも会うようになった。専らご飯に連れて行ったため、下手をすると財布のように思われていた可能性がないこともない。しかし彼がおいしそうに食べてくれると財布でもいいや、なんて思ったり。  手探り状態で始まった関係ではあるが、どうにかこうにかやっていけているのではと思っていた。  そんなある日、彼は言った。オレのこと名前で呼んでくださいよ、と。かい、カイ、海。言い慣れない音を口の中で反芻する。いつまでも名字なのは距離を感じる、オレと師匠の仲なのに、と彼は言った。  情けない話だが、彼の明るくお調子者なところに救われていた。落ち込んでいるときも彼と話していると良い意味でどうでもよくなるのだ。私のほうがお姉さんなのに、師匠なのに。彼にたくさん心を救われている。  彼が弟子入りを志願してくれなければおそらくはなかった縁だ。かわいい男の子から素敵な男の子、そして。いつしか彼に抱く印象も気持ちも変化していった。彼と同い年だったら、彼と同じ学校だったら、もっと仲良くなれたかもしれないのに。もっと別の関係になれたかもしれないのに。それこそ名前で呼びあえるような、そんな仲に。  だんだんと溢れてはいけない何かが溢れてきそうな気がして、怖くなって蓋をした。これはダメなやつだと本能的に理解する。  期待の目でこちらを見る翡翠に妙な圧を感じる。彼の恐れ知らずな無邪気さは、戦闘だけでなく普段の生活のなかでも健在だ。私なんて何一つとして彼の足元にも及ばない。また今度ねと言うと、「ちぇー」と返ってきた。不満そうに口を尖らせる姿はかわいいのに。「でもオレ、諦めませんから」と挑発的に笑む彼は、かわいくなんかなかった。  少し背を屈めて内緒話でもするかのように顔を近づけながら「もう一回」とねだってくる。そんなに近寄らなくても聞こえている。先ほどは周りにつられただけ、それだけだ。視界の端に映る彼の鮮やかな金の髪がまばゆくてくらくらする。彼の持つ翡翠も煌めいていることだろう。  蓋をしたはずの何かが少しずつ漏れ出す感覚があった。私と彼を隔てるものが多ければ多いほど安心する。師弟という名のついた関係、年の差、周りの目だってそうだ。 「名前を呼ぶだけなのに?」  いやいやと頭を振るが、彼は一歩も退かない。むしろ踏み込んでくる。 「もう一回。ほら、海って呼んで」 「みな――」 「海」 「……か……かい」  間髪入れずに遮られ、真っ直ぐな翡翠に射抜かれて、うわ言のように彼の名前を呼ぶ。その瞬間、どろりと溢れ出した何かに思考が支配された。  どうして私は彼より先にうまれたのだろう。どうして私は彼をただの弟子と見られなくなったのだろう。どうして師弟なのだろう。どうして彼は名前で呼ばれたがるのだろう。どうして私は。だって本当は彼と名前で呼び合いたい。同じ学校で同じ授業を受けて話題を共有したい。一分一秒を同じ時の流れで彼と過ごしたい。心の奥底でこんなことを考える自分がいるという事実そのものが嫌になる。こんな自分は彼に見られてはいけない、隠してしまいたい。いっそ全て抱いたまま消えてしまえばいいのに。  ふいに私の名前が呼ばれた。聞き慣れた声の、聞き慣れない音。思考が霧散する。反射的に落としていた視線をぱっと上げると、彼が小首を傾げていた。 「どこ見てるんですか?」  オレはここにいるのに、と彼は眉をひそめる。薄い唇が再び私の名前を紡いだ。そして。 「オレ、なんで最初に弟子にしてくださーいなんて言っちゃったんだろうなって思ってますよ、ずっと」  すっと伏せられた目が憂いを帯びる。こんな彼は見たことがない。さらに彼の言葉に理解が追いつかなくて、ぽかんと彼を見上げることしかできなかった。 「……何とか言ってくださいよ」  無言が気まずいのかこちらを半目で見下ろし拗ねたように呟く。じわじわと頬に赤みの差す彼同様、私の顔も熱くなっていく。 「考えなしに突っ込んでいくのは悪いくせだっていつも言ってる」 「弟子入り前だから不問でしょ」 「それを決めるのは私だよ、海」 「へへ、ですね!」  頬を色づかせながら、いつもの表情が戻ってきた。彼はおもむろに私を腕に閉じ込めると、声を弾ませる。 「今までのぶんも合わせて、二万回呼んでもらいますから!」  まだその背に手を回す覚悟はできていない。できていないのに、だらんと垂れていたはずの私の腕はゆっくりと持ち上がり、意に反して彼の隊服を握り締める。  あとはきっと、私が心を決めるだけ。 2021.06