※SCC関西29で発行した拙作「野に花つ」の後日談的立ち位置のため、本編で書ききれなかった設定を含んだものとなっております  今日の献立のあとひとつは何にしようかなと考えながら帰路につく。学校からのバイト終わりは疲れてしまっていつもより頭が働かない。実習なんかがあるととくに疲れてしまってバイトもままならない。生きるって大変だと思う。  夜が深まるなか、アパートの前まで帰ると部屋に明かりがついていた。一瞬肝が冷えたが、視界の端、駐輪場の隅のほうで肩身狭そうに見慣れた原付がとめてある。あれ、今日って約束してたっけ。階段をのぼりながら次第に軽くなっていく足取りに、我ながらわかりやすいなと思った。  一人暮らしを始めて半年以上が経った。  人間ひとりが暮らしていくにはこんなことも必要なのかと、家族と暮らしていたときには見えなかったものがたくさんあって、日々驚きと感謝が募っていく。実家からそこまで離れてなくて、でもひとりで暮らしているというと「いいなあ」と言われることが多かった。いいのかよくないのかはまだわからない。いまはよくないのほうに傾いている。なぜなら自由には責任が伴うからだ。たしかにいいなと思うことはある。門限を破っても怒られないしだらだらしても注意されない。しかし、だ。学校に通いながらお金のやりくりをしながら生活に必要なすべてを自分でやらないといけないのは、実はとても大変なことだった。実家にいればそのあたりは最低限ですむし、最悪何もできなくてもやってくれるひとがいる。けれどひとりだと、自分がしなければお皿は片付かないし、ゴミはなくならないし、洗濯物は減らない。  キーケースから部屋の鍵を取り出す。差し込もうとしたところでノブが回って文字通り跳び上がった。 「おかえり」  男ーー水戸洋平が開いたドアの隙間から顔を出し、にっと笑みを浮かべた。無意識に力を入れていたのであろう肩がふっと軽くなったのを感じる。ああ、帰ってきたと、そう思う。 「ただいま」  ここが帰る場所のひとつであると思わせてくれるのは、彼の存在が大きい。自分が卒業してから、デートそのものは生活サイクルが微妙に合わなくてまともにできていないけれど、定期的に顔を見せに来てくれるし、不定期に泊まりに来てくれる。部屋には彼の私物が少しずつ増え、それを目にするたび募っていく思いを自覚する。 「今日もお疲れさま」  貸して、と彼にさらわれていったカバンは、迷うことなく定位置に置かれる。そのときかすかに触れた指先は、相変わらずしっとりとしていた。それに比べて。自分の手のひら、指先を見下ろす。バイト先で手を洗うことが多く、冬じゃないからと油断していたらいつの間にかかさかさになっていた。  以前、花道くんが指先のケアをするようになったから、自然と気を遣うようになったのだと言っていた。ボールのリリースは、指のかかり具合ひとつで変わってしまうものらしい。だから指先の感覚はとても大事なのだと。もうすっかりプレイヤーの顔だと嬉しそうに笑った洋平の顔は鮮明に思い出せる。 「今日約束してたっけ?」 「明日が休みになったから」 「明日?」  明日は日曜のはずだけどと考えてから、そうかバイトと思い当たる。今日はいつもより頭が回ってない。予定が空いたから来てくれるって有り難いことだ。彼の人生に寄り添うことができているみたいで。 「バイト。なくなった。代わりに来週の約束はなしになるかも」 「いーよいーよ。それより今日、会えて嬉しい」  ありがとう、と言うと、彼は「何が?」と首を傾げた。いつもきっちりセットされている髪は下ろされている。格好もラフなものだ。彼にとって安らげる場所であるなら、それは嬉しいことだ。  育ち盛り男子ひとりぶんには足りないかもと思いながら夕飯がまだな話をすると、洋平は食べてきたから気にするなとのことだった。  いっぱい食べる印象はないものの、やはり私よりは多い。だからだろうか、成長期もまだ残っていたのか、出会ったときは少し見上げる程度だった身長差はぐんぐん開いていき、いまでは頭ひとつぶんの差がある。湘北を卒業したバイト先の先輩に譲ってもらったというダボついていた学ランは、彼の成長を大いに喜んだことだろう。今ではジャストフィットだ。 「デザート買ってきたからあとで食べようぜ」  そう言う彼は、私がせっせと準備をして食べている間、ずっとにこにこしていた。どうしよう、ちょっとだけ気まずい。食べてきているとはいえ、自分だけご飯を食べていることに後ろめたさを感じる。 「…………ひとくち、いる?」  頬杖をついていた彼はぱっと姿勢を正し、「いいの?」なんて宣った。 「先輩の作るおかず、好きなんだよな」 「いつも言ってくれるよねそれ」 「事実だし」  あーん、と開けられた口にひとくちぶんを突っ込む。嬉しそうに咀嚼する姿はまるで、まるでそう、雛だ。餌付けをしているような気分になるのは仕方がないだろう。  洋平が買ってきてくれたデザートをつつきながら、とりとめのない話をする。今日あったこと。友だちから聞いたこと。今度行ってみたいところ。じわっと口の中を広がる甘さとともに、向かい合っていた彼との距離も縮まっていく。  ふと、そういえば彼のことあんまり聞いてないなと思う。花道くんの話はするから彼が何とかの強化選手に選ばれたことは知っているけれど、洋平のいまのクラスとかは知らない。誰と同じクラスなのかも知らない。おかしいな、いやおかしいのは聞いてない自分か。 「ね。いまって何組?」 「言ってなかった?いちばん最後の12組」 「! 私と同じだ」 「そう。去年の先輩と一緒」 「あと一年遅く生まれてたら洋平と同じクラスになれたのになあ」 「それ。同じこと思った」  席の場所も聞くと、ちょうど去年の私の後ろの席だった。 「後ろか……後ろは恥ずかしいかも……同じクラスじゃなくてよかった」 「ええー」  彼の指先は私の毛先をつまんだり巻きつけたりして遊んでいる。 「……そういうことするから、やだ」 「許可もなしにやらねーよ」 「許可した覚えないんだけど」 「先輩はーーあんたは、特別」  近づいてくる彼はいつもより幼く見える。内緒話のように囁かれた特別という言葉が沁み込んでいく。溶け合う体温の心地よさは現と夢の境目を曖昧にする。夢ならどうか、覚めないでほしい。このままどこにも飛んで行けなくなっても構わないから。  人の動く気配がして、ゆっくりと目を開ける。身動ぎに気づいたのか「あ、起こした?」なんて声がかけられて、ああ今日は彼が泊まっているんだと思い出す。 「朝ごはん、何がいい?」 「……おみそしる」  私の声があまりにも掠れてて、数秒間顔を見合わせたあと笑いあった。風が吹き込み、カーテンが舞い上がる。ベランダの窓を開けていたらしい。ひとりのときは開けっ放しなんてできないから有り難い。それにしても朝っぱらから近所に笑い声を響かせるなんて。いいな、と思った。たぶんこういうのを、幸せと言うのだろう。  味噌汁のいい香りが鼻腔をくすぐる。 「そろそろ起きろよー」 「はあい!」  狭いアパートの一室。掠れてても届く声。大好きなひとがいてーーここが帰る場所になる。 2023.09