かわいいものが好きだ。かわいいキャラクター、かわいいデザイン、かわいい色、かわいい名前、かわいい人。
私が彼をそのあだ名で呼ぶのは、音がかわいいと思ったから。呼べば呼ぶほど愛着が増し、自分のあだ名ではないのにすっかりお気に入りになってしまった。
きっかけは同級生の王子だった。彼らはボーダーに所属しているという共通点があり、私たちとは親しさの度合いが違うように感じた。その王子が爽やかな笑顔のまま放ったのが「みずかみんぐ」だった。たまたま近くにいてそれを聞いた私は思わずかわいいとこぼしてしまったのだが、当の水上はどういう感情から来るものなのかわからない変な顔をしていた。何度かみずかみんぐと唱えてちょっと言い辛かったため、縮めて「みんぐ」と呼んでみた。
「もう「み」しか原形残ってへんやん」
「いいんじゃない?かわいらしくて」
「ね!かわいい」
「あかん、さぶいぼ出そう」
王子と二人でかわいいかわいいと言いまくっていると、水上もといみんぐは「お前ら覚えとけよ!」と捨て台詞のようなものを残して走っていった。そのとき彼の耳がうっすら赤くなっているのが見えて、かわいい人だなと思ったのだ。
みんぐという音が染み込み、彼の一部になった頃。
一度彼をかわいいと思うとその後は何をしていても何を言ってもかわいく思えてしまって、事あるごとにかわいいを連呼した。王子にからかわれて眉をひそめているのも、同じ隊の隊員だという後輩たちが教室に来ると少しお兄さんぶった態度をとるのも、なんでもない顔をして耳だけは色づいているのも。全部全部、かわいい。
その日は水上と一緒に学校を出た。彼の予定がなく私もひとりのときだけ二人で帰ることがあった。
共通の話題も共通の友人もほとんどなく、傍から見れば不思議な組み合わせに思うだろう。でも私は、彼の干渉しすぎない、話を無理に合わせようとしないところが好きだった。
「みんぐ〜」
「何や〜」
「呼んだだけ」
「ほうか」
そのくせ呼んだら律儀に返事をしてくれるのだから、かわいいとかきゅんどころの話ではない。むしろぎゅん、心臓を鷲掴みだ。
ふと彼がどこかを見ていることに気づき、視線を向ける。数メートル先、散歩中の大型犬が飼い主に戯れているところだった。
「か、かわいい……」
水上をじっと見つめると、意を汲んでくれたのか彼は大げさにため息をついて「制服汚すなや」とだけ言った。彼なりの許可である。
そわそわしながら近寄り、飼い主と犬に挨拶をする。かわいい子ですねと言うと、飼い主は人懐っこいんですよと笑う。犬は遊び相手が増えたとでも思ったのか、つぶらな瞳でこちらを見上げていた。飼い主から許可をもらって犬の前にしゃがむ。すると勢いよく飛び込んできて、支えきれずに尻もちをついてしまったが、戯れてくれるのが嬉しくてかわいくてそんなの気にならなかった。ひとしきり遊んだあと、名残惜しく思いながらもお別れした。
そうして少し離れて待機してくれていた水上のところに戻ると、彼の様子がどことなく変だった。
「みんぐ、どうかした?」
彼は視線をさまよわせながら何か言いたそうにしていて。でも私はそれをうまく汲み取れなかったから、なになに?と尋ねた。一瞬目が合ったのにすぐ逸らされる。がしがしと頭を掻いたかと思えば、意を決したようにこちらを向き、その身を屈めて私の肩にぽすんと頭を乗せた。彼の明るい髪が頬を、首をくすぐる。普段の彼なら絶対しない行動に心臓が飛び跳ねたがなんとか平静を装った。
「なに〜私とられて寂しくなったとか〜?」
あははと笑い飛ばそうとしたが、聞こえてきた言葉に思わず口を噤んだ。
「俺には構ってくれへんのか」
拗ねたような声音。彼の表情は見えない。
「……みんぐは、犬じゃないし」
「俺かてかわいいんやろが。さっきのんと一緒やんか、構えや」
「ええ〜」
構え構えと態度で示してくる水上がだんだんかわいく思えてきた。背伸びしながら彼に腕を回し頭を撫で回す。さっきの子とは全然違う感触だがこれはこれで有りかもなあなんて。わざとなのか彼はさらに頭を擦りつけてきて思わず私も擦り寄った。
「あはは、みんぐ、グッボーイ」
いい子いい子。かわいい。なんだか楽しくなってきた。そう思ったとき、首元に痛みが走る。え、とこぼして固まる私をよそに、二度三度、同じ痛みが。
「気ぃつけや、かわいいとだけ思ってたらそのうち食われんで」
顔を上げた彼は逆光になっていてその表情がわからない。痛みのあったところを指先で確認すると、いくつかの歯型があった。噛まれたのだ、水上に。
ぽかんとしたまま彼を見上げる。今の水上はかわいいと思えなかった。
◇
噛んだのは、人のことをかわいいかわいいと言いまくる女をちょっと黙らせたろと思ったから。
己の頭を抱き寄せ撫で回す彼女には邪な気持ちなんて微塵もないのだろう。彼女のそういうところを好ましく思っているし、自分とは違う世界の人間だとも思っている。対する水上はあまり動かない表情の中にあらゆる欲を隠していた。 その中には彼女へのどうしようもなく膨らんでいく欲も含まれている。
眉一つ動かさずに嘘を吐き出すことのできる唇は、今回ばかりは仕事を放棄した。そうでなければ彼女に撫でてもらうことも、無防備な首筋が目の前に晒されることもなかったのだから、しかしある意味では仕事をしたと言える。
ふわりと柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。人が腹の中に何を隠しているのかも知らないで、彼女はのんきに笑っている。そうしてられるんも今のうちやで。水上は狙いを定め、眩しいばかりの首筋に歯を立てた。二度三度と、甘噛みのように繰り返す。やってしまったという気持ちと、遅かれ早かれ避けられないことだったと正当化しようとする気持ちが絡み合う。歯型のついた彼女の肌は、美しく見えた。
何が起こったのかいまだ飲み込めていない彼女を見下ろす。あーあ、なぁんもわかってなくてかわええなあ。だんだんと己の口角が上がっていくのがわかる。純粋で真っ白で、汚いものから守られて生きてきたんかなあ、せやから俺みたいなのに目ぇつけられるんや、と水上は思う。
「か、かわいくない……今のみんぐは、かわいくない」
必死に絞り出したであろう彼女の声は震えていた。一応の危機感はあるのか、彼女は水上の体を押し退けようとわずかに抵抗している。ここで、本気で抵抗されたら退こうと思っていたのに。水上の中の隠していた欲が静かに鎌首をもたげる。
「かわいくない俺はあかん?」
「……あかんくは、ない」
「ほな、俺はこれからどうしたらええ?」
彼女の目を覗き込みながら水上は問う。逃げられない、逃さない。真っ赤に染まった頬とはくはく動く小さな唇。初めて見る彼女の姿に水上は止まれなかった。
いつも笑っている彼女の余裕を奪い主導権を握っているのが自分だと思うと気分がいい。そうして彼女の唇を捉え、顔を傾け、あと少しというところで水上の唇に触れたのは彼女の手のひらだった。
「この手、なに?」
「待て、だよ」
彼女は続けて「おすわり」と言った。
「犬とちゃうねんけど」
「いいから!おすわり!」
はいはいと水上は素直に指示に従い、その場にしゃがみ込む。彼女を見上げて「で?」と先を促した。
「人のちゅー遮るほど大事なことでもあるん」
「ちゅー言うなばか!」
照れながら怒る彼女もまた珍しい。水上の眦は知らず知らずのうちに下がっていく。
そして彼女は頬を染めたまま得意げな顔で水上を見下ろした。指示を聞いたのが彼女の何かに火をつけたのだろう。これもまた珍しい表情だ。なんや、そんな笑顔もできるんやんと水上は思う。
「……私の犬になるなら、さっきの全部、許す」
「ふぅん、犬ねぇ」
「かわいい犬だからね、反抗的なのはだめ」
「なんやそれ」
べつに許してくれんでもええねんけどなと思いながら、かわいいママゴトに付き合うのも悪くないなんて思う。手始めに、上下関係をわからせてやらないと。水上は彼女の細い手首を引いて大勢を崩す。そして降ってきた唇に噛み付いた。みんぐかわいくない!なんて宣う彼女の声は聞こえない。
2021.06
『同じ台詞でwtプラス』様提出