私の犬になるなら許すって言ったのに。言うことをちゃんと聞いて、素直で従順で、かわいい君でいるなら。なのに初手で噛み付かれて思わず声を荒げてしまったが、水上はしれっとした顔で「最初に上下関係決めんのは基本やろ」などと宣った。    休み時間、次の授業の準備をしていると、後ろの席の穂刈ことポカリが机に身を乗り出してこそっと話しかけてきた。イスに横向きに座って視線を彼に向けながら、おもむろに水筒を取り出す。彼のポカリというあだ名も王子が考えたものらしく、安定の王子イズムで私はすぐに気に入った。 「で、付き合ってるのか、水上と」  穂刈とは去年同じクラスだったこともありよく喋るほうなのだが、そんな彼から突然投げられた話題に飲んでたお茶を噴き出しそうになった。あわてて飲み込んで噎せたところを、大丈夫かと彼の大きな手のひらが背中をさする。落ち着いてきたところで思考も冷静になり、そういえばみんぐとのことって誰かに言ったっけと首を傾げる。 「私、ポカリに言った?」 「いいや。でもわかるだろ、見てたら」  穂刈が言うには水上の行動が変わったらしい。相変わらず表情からは何も読み取れないが、私への態度に親密さが表れているのだと。  言われてみればたしかに水上からのふとしたスキンシップが増えた。今までは私が一方的にかわいいと言い続けているのを、彼がハイハイと聞き流していただけだった。それが、近くの席で友達と喋っているとすれ違いざまに髪を梳いていく。廊下を歩いていると追い越しざまに頭を撫でていく。極めつけは――。 「なー、何の話?」  座っている私を後ろから覆い隠すようにもたれかかってくる重み。ぐえっと蛙が潰れたような声を漏らしても退いてくれない。水上は私が誰かと話していると気まぐれに乱入してくるようになった。まるであの日のように、構え構えと体を擦り寄せてくる。そんな彼もかわいく思えてしまう私はそろそろ末期かもしれない、なんて。 「潰れるぞ、退いてやれ」 「ハイハイ」  穂刈の助けにより重みは消えたが、ほんで何の話してたん? と、居座る様子を見せる。水上の表情はいつも通りなのにその声音はいつもより棘がある、ような気がした。目はじっと穂刈を見据えている。穂刈も穂刈で、何を考えているのか水上から視線を外さない。緊張が走る。瞬き一つできない、ヒリついたこの空気は何だろう。ふっと息を吐き出す音がして穂刈を見ると、彼は面白そうに笑っていた。 「嫌われるぞ、嫉妬深い男は」 「ないな。俺かわいい犬やし許されんねん」  なあ? と水上はこちらに視線を寄越し、口角を上げてみせる。 「飼い主とられて寂しいだけなん、わかってくれるやろ」  そう言われたら許してしまう。許すしかない。溢れ出しそうな何かを抑え込むように奥歯をぐっと噛み締める。水上を犬にしたのは私だ。彼に妙な自信があるのも、私がこの程度で彼を嫌いにならないとわかっているから。その通りだ。かわいいみんぐもかわいくないみんぐもすべて水上敏志で、私はそんな彼に既に心臓を掴まれている。今だって。彼の目に、言葉に。心を絡め取られている。  私たちを交互に見ていた穂刈がふうん、と呟く。 「ほどほどにしておけよ、特殊プレイも」 「とッ?! 違いますけど!?」 「まあ傍から見たらやばいやろな、俺犬やもん」 「いや否定しようよ、普通ですよって」  まるで私たちがおかしいみたいじゃないかと水上の体を揺さぶる。普通に付き合ってるだけなのに。彼がちょっと役になりきりすぎてるだけなのに。  水上は眉一つ動かさずに「世間の普通と俺らの普通がちゃうだけやろ、気にせんとき」などと言い放つ。 「そういう問題とちゃう……」 「おまえらを推すぞ、オレは」  腕を組んで頷きながら言う穂刈に「推すな」と言っておいたが。放課後にはボーダー関係のひとたちに知れ渡ってそうだな、なんて思った。    何が水上の感情を揺さぶったのかわからない。けれど不安を感じていることはわかった。生物室で二人きり、あとは生物部の飼っている魚やラットがいる。その命たちは私たちに干渉しない。  今日の六限は生物室で実験があった。何の因果か、班のメンバーは私以外男子で、なんとかの姫状態だった。たまに発生するバグみたいな状況にひとしきり笑ったあと、気持ちを切り替えて実験を進めていく。班分けはあらかじめ決められたものだから仕方ないとはいえ、背中に突き刺さるものがあって。振り返りはしなかったが、水上だろうなあと思った。それほど広くないテーブルで額を寄せ合いつつなんとか実験は終了。表にまとめていた数値なども誤差の範囲内だった。  授業が終わり、ぞろぞろと教室に帰る波に流されていると、明るいオレンジの髪だけが席から動いていないことに気づいた。先に教室行ってて、と波に逆らい生物室に戻る。 「みんぐ、教室もどろ」  座っている水上に声をかける。生物室はもう皆出ていって、彼と私しかいない。  頬杖をついてどこかを見ていた水上は、ゆるゆると視線を上げると無言で手招きをした。なんだろうと思いながらテーブルを回って彼の側に寄ると。突然、手首を引かれてバランスを崩し、彼の頭に抱きつくように倒れ込む。あわてて体を起こそうとするもそれは許されず。みんぐが、水上が。私を捉えて離さない。彼の腕は腰を掻き抱き、私の胸元には顔を埋めて擦り寄ってくる。突き放そうと持ち上げた手はむなしく空を切った。出来なかったのだ、私の名前を呼ぶ彼の声はまるで。まるで、迷子のような、居場所を求める子どものような。彼を放っておいてはいけないと本能的に理解する。「みんぐ、」と彼を呼ぶ声は掠れていた。それに反応して上目遣いでこちらを見上げる彼に動きを、呼吸すらも止められて。 「なぁ、そろそろ名前で呼べや」  目が、逸らせない。水上の瞳の奥から漏れ出す何かに惹き込まれて、ごくりと生唾を飲み込む。宙に浮いて行き場をなくした両手をぎゅうと握る。  もしかして知らん? と聞かれて辛うじて首を小さく左右に振った。知ってるよ、敏い君。志もつ君。 「ほんならはよ、呼んで」 「さ、……さとし」 「もっと」 「さとし、」 「もっとや」  付き合ってからも水上をあだ名で呼び続けていたし、学校では彼を名前で呼ぶ人はほとんどいない。言い慣れない音を発し、聞き慣れない音が自らの鼓膜を揺らす。もっととねだる彼は、私のひとことひとことを噛み締めているのか次第に落ち着いていく。  水上のこんな姿は初めて見た。たまにはこんなふうに甘えられるのも悪くないかもしれない。このまま抱き締めて腕の中に閉じ込めたいと思ってしまう。でもそうしたらまた、噛まれちゃうかな。以前とは違い、付き合っているのだからそれでも私は構わないけれど。  ふっと拳の力を抜く。感情の赴くままに手を伸ばし、明るい色の髪に触れた。少し力を入れると呑み込まれるように手が沈んでいき、いつもは見えない頭の形が指先をかすめる。その形に沿って頭を撫でた。ゆるりゆるり、何度も何度も。  水上が私に何を求めているのかはわからない。私に何を見ているのかもわからない。けれど不安そうにこちらを見上げるその顔は、私をたまらない気持ちにさせる。いとしいとさえ思う。彼が何に心を揺さぶられ、何に心を預け、何に命を燃やすのか。その片隅に私がいてもいいのか。聞きたいことや知りたいことの半分も教えてくれないくせに。なのに欲しがる。甘える。ねだってくる。ああ、なんてかわいいんだろう、君ってひとは。この上なく不器用で、欲張りで、[#ruby=愛_かな#]しいひと。  心臓ごと、心ごと奪われた私は水上の手を離さない。離せない。もしこの腕を断たれたら喉に噛み付こう。もしこの首を斬られたら君の心に消えない傷を刻みつけよう。そうして一生涯、私を忘れることを許さない。  たまらなくなって、水上の頭を掻き抱いた。胸を彼の顔に押し付けているなんてことはどうでもいい。先ほどまで平然と胸元に顔を埋めていた彼は、今更になって「ちょ、待てや、」とかなんとか言いながら距離を取ろうと仰け反る。自分はこれでもかと押すくせに、押されるのは慣れていないらしい。彼の声が上擦っている。そういうところもかわいい。もっと好きになってしまう。けれど、待ては聞けない。だって飼い主は私だ。彼のしつけは私がする。  そうして水上の腕がゆるんだところで、いつかのお返しとばかりに赤く染まっていく耳に噛み付いた。 2021.07 『同じ台詞でwtプラス』様提出