「は、おもんな」
真顔で吐き捨てられた言葉は宙を漂う。
このひとことはコミュニケーションを拒否されたも同然だった。相互理解からは程遠い。俺はあなたを理解する気はありません、歩み寄る気もありません、どうぞご勝手に。まるでそう言っているように聞こえる。何が「おもんな」なのか、全く、これっぽっちもわからない。そうやって会話を一方的にシャットアウトして、勝手に終わった気になっているのかもしれないけれど。まだ、終わっていない。ポケットに両手を突っ込み、眉一つ動かさず、異論があるならどうぞと言わんばかりのその態度。
ぐっと握りしめていた手のひらから力を抜いてぷらぷらさせる。
彼は感情的な行動をあほらしいと一蹴するだろう。暴力と呼ばれるものであるなら、なおさら。冷静な自分はそれを十二分に理解している。しかし一方で、話し合いを拒否されてしまえばこうでもしないと何も伝わらない、伝えられないと正当化しようとする自分もいる。彼が聞く耳を持ってくれるだけの言葉を、私は持ち合わせていない。
泣くな。彼は面倒な人間を好まない。
動くな。彼は一時の感情に任せて起こす行動を好まない。
頭ではわかっているのに、体は、心は止まってくれなくて、腕を大きく振りかぶる。すました顔でこちらを見下ろす男――水上敏志の横っ面にでっかい紅葉を咲かせてやったのが、つい昨日の話。
学校もクラスも同じだと嫌でも顔を合わせることになる。
昨日の今日で気まずさはあるものの、自分は悪くないと言い聞かせて深呼吸をひとつ。勢いよくドアを開けて教室を見回すと、クラスの半分くらいが登校していた。そのなかに見慣れた橙の頭が見える。が、なぜか自分の席ではなく私の席に座っている。ゆっくり近づくと、彼はわざとらしく顔を上げた。何を考えているのかわからないその目が、今は。
「おはようさん」
心臓に毛でも生えているのか、水上はいつも通りに挨拶をしてきた。いつも通り私より少し早く登校し、いつも通りカバーをかけた本を読み、いつもと違うのは仰々しく湿布の貼られた左頬だけ。
痛そうだとかなんとかヒソヒソ聞こえてくる声は私たちに何があったのか知らなくても雰囲気で察したのだろう、干渉はしてこない。別に隠すようなことではないし、彼の一方的なシャットアウトは悪い癖だから一度全員に非難されてしまえばいい。彼は全く応えなさそうだけれど。
「無視か? ええ度胸やんか」
「そっちこそ嫌味か? なにその湿布」
「誰かさんに殴られてもうたからなぁ。痛くて痛くて、八時間しか寝れんかったわ」
「安眠かよ。あ、そっかー私としたことが気づかなくてごめんね、右頬も殴ってあげなきゃバランス悪いよね。顔、出せよ」
「コッワ」
言葉出えへんからって暴力に訴えかける奴は言うことがちゃうな、などと。昨日の私だったら間違いなく二発目を拳で振り抜いてるところだったが、今日の私はそんなことしない。落ち着いて、冷静に。
水上敏志と付き合って二ヶ月が経つ。
ぶっきらぼうななかに見える優しさとか、いつも紳士的な態度であるとか、クラスの雰囲気を明るくしてくれるとか。そういうものと水上は無縁だった。けれどバカ騒ぎしないし、下世話な話をうまくかわすし、悪口や噂話にも適度な距離を保っている。彼のそういう一歩引いた、俯瞰したようなところが大人っぽくていいなと思ったのが一番の理由。そうして彼を目で追いかけていたら「おもろいことするやん」と、交換条件さながら彼に「おもろい」を提供する存在として付き合うこととなった。その時点で気づくべきだったのだが、そんな理由で付き合うかという奴にまともな奴はいない。水上も例外ではなく、大人っぽいと思っていたのはふたを開ければ、ただ意味のない問答が面倒なだけであり、必要最低限のコミュニケーションしかとろうとせず、挙句の果てには「おもんな」のひとことで戦意を消失させにかかる。
溺愛されたいわけでも、甘やかしてほしいわけでもない。少女漫画はどこまでいっても少女漫画でしかないが、それにしてもそれが仮にも彼女に対する態度か? と思わざるを得ない。彼女云々以前に、ひとりの人間に対する態度か? と。何度も対話を試みたものの必要最低限ですらないと思われたのか、言葉を遮ることはなかったが、返答はなく。結果として何も変わらなかった。
積もっていくばかりの不満はついに爆発、たまっていたものをぶちまけ、会話をしろと説いたところ、「は、おもんな」のひとことで全て終了してしまった。言いたいことがほとんど伝わっていなくて、呆れと怒りとなんかもういろんな感情がごちゃごちゃに混ざって、彼の頬を打って走って逃げたのだった。
お互いに次の言葉を待つ。水上がこちらの出方をうかがっているのがわかった。
クラスメートが私たちを遠巻きに見ている。不自然に静かなクラスを不思議に思ったのか、いつの間にか他クラスからの野次馬もいる。委員長が声をかけるかかけまいか、狼狽えているのが視界の端に見えた。そうこうしているうちに予鈴が鳴り、彼らは自分たちのクラスへ戻っていく。
予鈴が鳴っても席を立つ気のなさそうな水上を睨め付けながら中指を立てると、その手首をガッと掴まれた。すかさず空いてる手で彼の胸ぐらを掴み返す。
「お行儀の悪い手やな。もっぺん小学校からやり直すか?」
「水上はコミュニケーション下手すぎ。赤ちゃんからやり直せば?」
掴まれている手首がギシリと音を立てる。痛い、痛いけど引けない、引かない。
睨み合う私たちをべりっと剥がしたのは穂刈だった。
「始まるぞ、授業が」
ふうと息を吐きながらがたりと立ち上がった水上は穂刈に「悪い」と言って自分の席へ戻っていった。――は? 私には何のひとこともないんですか?
「なにあれ」
村上が「落ち着け」と声をかけてくれるが、落ち着くの域はとっくに超えている。
「……いいよもう、別れる。絶交。一生口きかないから」
「おまえは小学生か」
影浦がぼそりと呟く。
「誰かさんに小学生からやり直せって言われたもので」
「そーかよ」
全て聞こえているはずの誰かさんは、こちらを一瞥しただけだった。
◇
それから二週間。
最初はやっぱりちょっと水上のことを気にしたりもしたけれど、もともとたまに一緒に下校するくらいで頻繁に連絡を取ることもなかったからか、別れたところでとくに困ることはなく、平穏な日々を過ごしていた。一生口きかないとか言ったが、きっかけがなければ私たちは所詮その程度の関係でしかない。本来悩まなくていいことで割かれる時間ほど無駄なものはない。それが他人であるならなおさらだ。村上が何度か「本当にいいのか?」というようなことを言っていたが、私から言うことは何もない。
転機はその数日後、急に訪れる。
廊下をひとりで歩いているときだった。
「おい。ツラ、貸せや」
目の前に立ちふさがる男は、相変わらず両手をポケットに入れたまま、私をどこかに呼び出そうとした。
私は「おい」ではないが? それが人にものを頼む態度か?
一生口きかないと言った手前、彼に返事をする道理はない。横をすり抜けようとすると、彼の脚で阻まれた。
「ほんまに一生口きけへんつもりか? おもんないでそれ」
おもろいもおもんないも、今の私にはどうでもいいことだった。言いたいことがあるならこの場で言えとばかりに睨み付ける。そっちがその態度を改めないなら私もこのままだ。
今は穂刈がいなければ村上もいない。この前のようにストッパーになってくれる誰かは存在しない。
何を言われても心が動かない自信があった。謝ったり、もう一度付き合おうなんて言われたりしたら、今度こそ右頬を殴る覚悟でいた。
「……イコさんと、あー、知り合い何人かにめっちゃ怒られた」
水上は静かに語りだす。
「言葉が足りん自覚は、正直あった。でもまあそれで生きてこれたし、これからも生きていくつもりやったけど。言葉にせんとわからんとか、面倒やとしか思えへんけど。なんていうか、おまえがおらんの、ちょっと、さみしい」
ポケットから出された両手はだらんと力なく垂れている。
「おもろいとか本当のところはどうでもよくて、おまえとおる時間が好きなんやと思う」
どうしてそんな顔で、そんなこと言うの。今さら、そんなこと言うの。今まで一度も言ってくれたことないのに。
「ごめんな」
聞こえるや否や、左拳を繰り出していた。水上は私の行動を、思考回路を予想していたのか、「おっと、」と言いながら難なく受け止める。
「本気やん」
「……謝られても、万が一、告白されても。許すもんかと、思ってた」
「キッツ。謝らしてもくれへんのか」
「でもいま、揺れてる。水上の言葉なんかに揺らされて、自分でもどうしたらいいのかわからない」
言うてみるもんや、と呟くのが聞こえた。パッと離された拳には、もう力は入っていない。
「ほな、言うてもいい?」
「だめ」
「あかん?」
「あかん」
「ほんまに?」
「ほんまに、あかん」
こんなぐらぐらの状態で、告白されでもしたら。私の覚悟なんて、崩れてしまう。――ほんとは、もっと一緒にいたい。嫌いになんてなれない。だって、ほんとは、水上のそういうところも含めて好きになったから。変わるとか変わらないとか、そんなのどうだっていい。一度溢れてしまったら止まらなくなって、それで、だから、最初から私は。
「ちょお、なんで泣いてるん」
「水上のばか、あほ、ぼけ」
「めっちゃディスるやん」
「好き~~~~」
「え、待って。なに、ついてかれへん、どういう展開?」
これこそ、言葉にしなければお互いにわかりあえないことだろう。水上だけじゃなくて、きっと私の言葉も足りなかった。会話を望みながら、本当に必要なことは伝えられていなかった。だからどうか、許して。こんな私を。
ぼたぼた涙をこぼす目元を「あー、もう」と拭う指先は優しい。
「言ってくれないと、わかんない。言わないと、わかんない」
「せやな」
「私も、謝りたい」
「おん」
精一杯のごめんなさいは、彼に届いただろうか。
そうして、無言で見つめ合うこと数秒。
「……ちゅー、したい」
「勝手に、すれば」
「ちゃんと言わなわかれへんて言うたん、自分やろ。だから聞いてんねん。したい、してええか?」
鼻先がくっつきそうなほど近づいておきながら、何を。
「なあ、許可ほしい」
「う、」
「……あかん?」
「あ、ううう、……ぃ、いい――」
いいよ、と言い終わる前にキスされた。
だから、そういうのはちゃんと言ってくれなきゃ、困る。
◇
村上に迷惑をかけたことを謝ると、彼は「仲直りできたならいいんだ」と言った。
「水上が、困ってた」
「水上が?」
彼は頷く。
「付き合いは短くないが、初めて見たよ。それだけあいつにとって大きな出来事だったんだろうなって」
だからきっと、たくさん悩んだんじゃないかな。
私には、それはわからないけれど。村上が言うのならそうなのだろう。見えないところで悩んでいたのかもしれない。
「俺も、言葉を伝えるのは少し苦手だ」
「そうなんだ?」
「うん。恥ずかしいかな、この歳にもなって」
「水上と私なんてつい最近バトったばかりだし! 大丈夫、なんとかなるよ」
ありがとう、と村上が微笑んだ。
2022.04
「インビジブル・ラヴァ―」