私が彼を縛り付けている。    ◇    ――もう、限界だった。  人間は理解の及ばないものに恐怖を覚えるものだ。たとえば、真っ暗闇。たとえば、ことばに定義されていないもの。たとえば――王子一彰。  私は、王子一彰がこわい。    何かしらのアクションがきっかけで、ということだったら理解できる。私だって助けてもらったり、お菓子をわけてもらったり、遊びに誘ってもらったりしたらそのひとのことが好きになる。もともと好きだったらもっと好きになる。  けれど、そうではないとき。何も覚えがないのに、好意的な感情を向けられるのはおそろしいだけだ。理由がないものをどうして信じられようか。  落ちた消しゴムを拾ってない。困ってるときに助け舟を出してない。代わりに日誌を書いてない。何もしていない。  なのに――王子一彰は、目の前で微笑んでいる。    階段の踊り場で黙って向き合う私たちを、ある生徒は足早に、ある生徒は野次を飛ばしながら通り過ぎていく。上履きの摩擦音。年季の入った空調。建て付けが悪い教室の引き戸。  後退った先には何期生だかが寄贈した大きな鏡がある。後ろを鏡、前を王子に挟まれてしまい心臓が暴れている。視線は足もとから一ミリも動かせない。制服越しに伝わる鏡の冷たさとはうらはらに、頭の中は熱さが増す。 「何もしなかったら、何も起こらない。本気でそう思っているのかい?」  穏やかな声が鼓膜を揺らしていく。 「きみが思っているより何倍もきみを見ているひとはいる。もちろんぼくもそのひとりだ」  一歩、彼が踏み出す。 「誰にでも平等に優しさを与えられるきみは素晴らしい」  さらに一歩。 「そんなきみの唯一がほしい――なんて、ぼくもわがままになったものだよ。そう思わないかい?」  ああ、どうしよう。目と鼻の先に、彼が立っている。    自分が優しくされたいからみんなに優しくしてるだけ。自分が無視されたくないからみんなに声をかけてるだけ。自分がされたくないことをしないようにしてるだけ。ひとより少し弱い私が生きていく術のひとつ。  それをさも崇高なことのように取り上げる王子一彰は何なのだろう。自分のためなのに。誰のためでもないのに。  自分以外の唯一になりたい、なんて世俗的なことをこのひとが言うわけないのに。  私の知る王子一彰はこんなひとじゃない。こんなふうにひとりの人間に入れ込まない。誰よりも強い輝きを放ち、誰の目をも引き、そうして知らない間に誰かの唯一になっているようなひとなのに。    やっとの思いで声を絞り出し、「どうして」と問う。どうして、私なの。どうして、そんなこと言うの。どうして。  うーん、と悩むような素振りを見せたかと思えば「ぼくにもわからない」と返ってきた。 「偶然かもしれないし、運命かもしれない」  王子一彰がおよそ使わないであろう言葉が飛び出してきて、固まってしまう。いま何て言った? 「なぜか気になるし、なぜか目が離せない。いつだってぼくを見てほしいと思うし、きみを見ていたいと思う。どうしてだろうね?」  聞かないで。見ないで。触らないで。 「だからきみが教えてくれないかい」  この感情の正体を。  心まるごと、吸い込まれそうな瞳の向こう側。迷子の顔をした王子一彰が見えた気がして。だから私は、こわさとは別の感情が産声を上げたのを抱き上げるしかなかった。    こんなことで満たされたくなかった。こんなことで優越感に浸りたくなかった。こんなことで、王子一彰を縛り付けたくなかった。  彼は自由に生きるひとで、誰かひとりに心を傾けるなんてしなくて、誰かのものになることなんてなくて、その生き様がまぶしいのに。そのはずなのに。  私のせいなのかな。私がだめなのかな。だから王子一彰もおかしくなっちゃったのかな。謝らなきゃ、――なのに、心のいちばん奥のほうが喜んでいる。私の輪郭が鮮明になっていく。知らない私が浮かび上がる。どうしよう、私もおかしくなっちゃったのかも。  嗚咽が止まらない。伸びてきた指先が目もとの溢れたしずくを拭っていく。 「汚い」 「汚くないよ」 「見ないで」 「どうして?」 「綺麗に泣けないから」 「それはますます魅力的だね」 「……へんなの」 「褒め言葉だよ」    ◇    泣いたあとのスイーツは全身に沁み渡る。  このカフェに行きたいと言いだしたのは私だったが、王子一彰は嫌な顔一つせず了承してくれた。 「おいしい」 「うん、そうだね」  頬杖をつきながらこちらを見る一対のあおが煌めく。ひとが食べてるところなんてなんにも面白くないと思うのに、彼は笑みを浮かべ続けている。  そうして「ぼくもいただこうかな」と、随分前に置かれたスイーツを食べ始めた。捲くったブラウスの袖からのぞくしなやかに筋肉のついた腕と、真っ白なホイップクリームがたっぷりのったお皿。そのアンバランスさにくらくらする。またひとつ、私の輪郭が浮かび上がった。私も知らない私を教えてくれる。  本当の彼はきっとこんなところにいるようなひとじゃないのに。こんなことを言うようなひとじゃないのに。  私が彼を――王子一彰を縛り付けている。  その事実だけが私を人間たらしめる。 2023.04