それは想定外の出来事だった。  いつもならご飯を食べたあとにあたたかい飲み物でも飲んで、ちょっと話が一段落ついたところで「ではまた」と解散するのだが、今日は違って。  一月十日。彼――王子一彰の誕生日の、前日。   「まだ時間ある?」  おやめずらしい、と思いながらも頷く。どこに向かうのかたずねるようにじっと瞳を見つめるが、彼は立てた人差し指を唇に当てるだけだった。  先導する背中を追いかける。等間隔に並ぶ街灯が照らしだすミルクティー色の髪が揺れている。きちんとセットされているところしか見たことがなかったけれど、一日も終わりに近づくとどうしても崩れてしまうのだろう。遊ばせていた毛束が落ち着きを取り戻していた。彼が完璧ではない証拠だ。  吐く息の白さが気温の低さを表す。無意識に握りこんだ自分自身の手のひらは、指先の冷えを解消するべく体温を溶かしていく。  どこに行くのと問うように彼のコートの袖を引くと立ち止まった。おもむろに振り返る彼の鼻さきは真っ赤になっていて、それがいつもの王子一彰とは全然違うからじわりじわりと面白さが込み上げてくる。 「鼻真っ赤」 「きみもね」  私の鼻さきも赤くなっていたらしい。触れてみてもわからない。たしかにこれは自分では気づけない。  そうして「どこに行くの?」とたずねた。 「どこがいいかな」 「えっ、あてなし?」 「ふふ、きみがいるならどこだって目的地だよ」  首を傾げる。いま、なんだかキラーワードを耳にした気がする。彼の顔をまじまじと見ていると、袖を掴んでいたはずの指先にあたたかいものが触れた。あわてて視線を落とすと繋がっていた、指が。  ドッドッと跳ねまわる心臓をむりやりなだめる。彼の体温が溶け込んでくる。いや逆かもしれない、私の体温が溶け込んでいく。 「つめたいね」 「手がつめたいひとは心があったかいって聞いたことある。だからかも」 「本当だ。きみの心はあたたかい」 「……その理論だと、手があたたかいひとは心がつめたいってことになるけど」 「そうかもしれないね。きみはどう思う?」  迷信だろうと笑い飛ばしてやりたかったのに、あんまりにも彼が楽しそうにするから、それ以上何も言えなくて。絡んでいた指先は、するりと移動して手のひらを撫で上げたかと思えば、指と指の間に滑り込んだ。心臓が再び暴れだす。あれ、いまってそういう雰囲気だったっけ? あれ、声ってどうやって出すんだっけ? はくはくと動かすだけの唇をマフラーで隠した。  ようやっと絞り出した「帰らないの」という言葉は、どのように聞こえたのだろうか。彼の手に力が入ったのがわかる。視線を上げるとあおの瞳が揺れていた。夜の闇には染まらない深いあお。少しだけ冷静さを取り戻す。おやめずらしい、今日はいったいなんの日なのだろう。 「十一日は、ぼくの誕生日なんだ」 「うん」  知っている。だから今日はプレゼントを渡した。同年代の男子にあげるプレゼントなんてわからなさすぎて困る。高価すぎず安価すぎず、でもなるべく普段使いできるもの。とはいえ、彼ならきっとなんだって受け取ってくれるだろうし、たとえそれがお土産物売場にあるよくわからない格言のプリントされたTシャツであっても、嬉々として着用してくれるだろう。 「ひとつだけ、わがままを言ってもいいかい?」  頷く。王子一彰はのびやかに生きている。あるがままに、自由に、囚われるものなどなく。私は彼のわがままに囚われる。見せかけの翼で空を飛ぶ。 「一番最初に祝ってほしい」 「そんなことでいいの?」 「できる?」 「……んん? ちょっと待って。電話、とかではなく?」 「うん。ぼくのわがまま、聞いてくれる?」  遠回しな誘い文句と握りこまれた手。真っ赤な鼻さきと真っ赤な耳。それは寒さだけじゃないかもしれない。  もう一度、どこに行くのとたずねる。彼は「二人きりになれるところ」と答えて。それから、腕を引かれて二人で夜の街を駆ける。なにもかもを置き去りにして。 2024.01