前方からびしびしと視線が突き刺さる。  彼に何か不快なことでもしてしまったのだろうかと今日一日を急いで振り返るが、とくに思い当たる節はない。しかしだからといって「私何かしたっけ〜笑」と気軽に聞けるほど近い仲でもなく。  前の席を借りて座っている彼――王子一彰と私と、それから数名が残る教室。まだ閉めていない窓から風が吹き込み、度々カーテンを巻き上げる。書きかけの学級日誌に目線を落としたまま、顔を上げることができない。  一年の頃に比べると日直の仕事は激減した。マストなのは号令とか日誌を書くとかそのあたり。そして今日は、私と後ろの席の王子くんが当番だった。  彼とは今年初めてクラスが同じになったのだが、噂に違わぬプリンスっぷりと、そこからは想像もつかないユーモアの両方を兼ね備えた人だった。どちらかというと陽、太陽のような人だと思った。彼のひとことでクラスの雰囲気は締まりも緩みもする。クラスに必要な人間というのは、彼のような人のことをいうのだろう。  とくに彼の姿勢の美しさは印象的だった。見るたび背筋がピンと伸びていて、その姿からは気品のようなものがただよっている。そんな彼が後ろの席になったときは思わず私の背筋も伸びた。だらしないところを見られてはなけなしのプライドが泣いてしまう。と、頑張ってはみたがものの数日で音を上げた。姿勢の維持は体力も筋肉も精神力も使うのだ、私にはたえられなかった。  自信がない、面白くない、内向的、姿勢が悪い。彼とは正反対の私。窮屈で苦しくて明日を迎えるたびに憂鬱になる。今日もまた私は何もできない、どうしようもないまま一日を終えるのだと。  彼みたいになりたいわけではないけれど。彼のようになれたら、世界はどんなふうに見えるのだろう。 「綺麗な字を書くね」  手元を覗き込み、彼が言う。突然のことに一瞬手が止まったが、すぐに動かす。あなたのほうが綺麗な字を書くのにとは言えず、ありがとうございますとだけ返した。  それ以上彼は何も言わず、再び視線だけを寄越す。気まずい。気まずすぎて全部放り投げて逃げ出したい。そんなことしないけれど。  そうして、ようやっと日誌を書き終えた。残っていた数名は先ほど教室を出たのだろう、廊下から聞こえる声が次第に遠ざかっていく。  ぱたんと閉じた日誌に目を落としたまま「書けたので、帰りましょうか」と声をかけた。 「提出に行かないのかい?」 「私が行きます。王子くんはお先にどうぞ」 「それは困るなぁ。日直はぼくたち二人だ、二人で提出しに行くことに何か問題でもある?」 「ない、けど……」 「よし。行こうか」  ほら早く帰る用意して、と彼は急かしてくる。急かすということは、もしかしたらこのあと用事があるのかもしれない。それならなおさら、先に帰ればいいのに。  それが表情に出ていたのか、彼はこちらを見ると可笑しそうに笑った。 「不服かな」 「……わからないなと思って」 「じゃあ、きみに特別授業をしてあげよう」  彼は立ち上がると、私にも立つよう促した。彼の言葉に戸惑いつつもそれに従い、立ち上がる。身長差はもちろん、彼の目を見ることなどできるはずもなく、少し下の襟付近を見る。すると頭上でため息が聞こえたような気がした。  おもむろに彼は背後に回り私の肩に手を添えると、「真っ直ぐ前を見てごらん」と言った。言葉の通り前を見ようとするも癖で視線が下がり、見えるのは斜め下ばかり。  彼が耳元に口を寄せる。自分のものではない香りが鼻腔を、そして吐息が耳を掠めた。 「きみがぼくを見ていたのは知ってるよ」  びくりと肩が跳ねる。 「ぼくもきみを見ていたからね」  耳打ちするように、まるで二人だけの秘密のように。彼の予想外の言葉はふわふわと浮いている。諭すように柔らかな声音は、思考回路をどろどろと溶かしていく。 「少し消極的なところはあるけれど、きみは魅力的な女性だ。どうして自分で自分を隠そうとするのかな」  後ろから腕が伸びてきたかと思えば顎を大げさなくらいに上げられた。真っ直ぐ前どころか見えているのは少し上だ。きみにはそのくらいがちょうど良い、と彼が言う。  項に彼の指先が触れた。次に五指、そして手のひらと、順に触れる部分が増える。焦らすようなそれに心臓が少しずつ鼓動を速める。彼の手が触れているところからじんわりと熱が広がっていくような気がした。  肩甲骨と肩甲骨の間、項から滑らせた彼の手のひらがぐっと押す。思わず胸が開き、肩甲骨も開く。耳元で「その調子だよ」と彼が囁いた。背中にあった手のひらは背骨をなぞるようにおりていき、臀部に到達した。嫌でも彼の手を意識してしまう、力が入ってしまう。 「ここに力を入れる。そう、上手」  彼はただ普通に触れている。なのに私は、私だけが普通ではない気持ちになってしまっている。恥ずかしいやら情けないやらで顔を覆いたいのに彼の手がそれを許してはくれなかった。  彼の顔も表情も見えない。彼の手が、声が、私を動かす。  やがて触れていた彼の手全てがそうっと離れて。「少しだけ顎を引いて、ほんの少しだけだよ」と聞こえた。もう私は彼の言うとおりにすることしかできなくて、そのとおりにやってみせる。  正面に戻ってきた彼は、眩しそうに目を細めた。 「……綺麗だ、とても」  呟かれたその言葉はあらゆる壁をすり抜けて、私の中にすうっと入り込む。普段ならきっと弾いていたそれ。今は、彼に手伝ってもらいがんばっている今は、素直に受け取ることができた。 「一つ、課題がある」  彼の勿体ぶった言い方に、少しだけ身構える。 「きみから声をかけるんだ。ぼくだけでなく、皆にね」  あいさつも、そして何かを働きかけるときも自分から。これまで受け身だった自分には難しいことだ。しかし今ならできるかもしれないとも思う。足の裏を地面につけて、背筋を伸ばし、前に向かって声を出す。ああ、でも前を見るには前髪が少し邪魔だな。切らないと。 「姿勢ひとつ、話し方ひとつで、印象はがらりと変わる。明日からきっと、きみの世界は一変するよ」  王子くんの穏やかな声が鼓膜を揺らし、じわじわと脳に浸透していく。彼は微笑みながら私を見る。彼の美しいあおと目が合う。彼が言うのだからきっとそうなる。私が変わる。世界が変わる。  まるで夢でも見ていたかのように、彼のひとことではっと我に返る。 「じゃあ提出しに行こうか」  日誌を提出しに行くところだったのだ。そんなことすっかり頭から飛んでいた。そして時計を見上げて驚いた。そういえばもう茜色を通り越し、夜の帳が下りようとしている。 「きみはお先にどうぞ。ぼくが出しておくよ」 「それさっき私が言った……」 「あれ、そうだったかな」  とぼけたような彼の物言いに、なんだか思わず笑ってしまう。先ほどの彼の言葉を真似て二人で行こうと言うと、彼はそうだねと頷いた。  窓を閉めてカーテンを束ねておく。歪んだ机を軽く整えつつ、教室の外に出る。職員室までの道のりはそう遠くない。足取りは軽く、気まずさも緊張も何もない。気を緩めていると、背中にぽんと手が触れた。 「授業の内容、もう忘れた?」  背中から全身に熱が広がる。彼の声が沁みこんでいく。背筋を伸ばすと彼の手は離れた。少し物足りなさを感じる。――もっと、触れていてほしいなんて、言えない。  日誌を提出し、日直の仕事を完遂した。職員室を後にして昇降口に向かう。あとは帰るだけだ。 「また、明日」  校門を出て、王子くんに手を振る。彼も手を振り返してくれて、そして。 「明日も見てるからね、気を抜かないこと」  先ほどまで息を潜めていた街灯がその存在を主張した。彼の横顔が照らされる。そこに浮かぶ表情を認め、ぞくりとした。ああこれは。いつか、いつか喰われてしまう。恐怖か、期待か、喜びか、はたまた別の何かか。胸のうちでくすぶる未完成で曖昧なそれが、彼に気づかれていなければいいのに。  王子くんがこちらに背を向けて歩いていく。彼の姿が見えなくなるまで、私はその場から動くことができなかった。  明日は私から王子くんに声をかけるのだ。  きっと明日から、世界は一変する。 2021.05