失恋したから髪を切った。  好きな人が髪の長い子が好みだとか言うから、少しでも好みに近づけるよう伸ばしていた。面倒な手入れも頑張った。けれど、その人は私ではない誰かを選んだ。だから私は髪を伸ばす必要がなくなった。ただそれだけ。  髪を切ったらなんだかすっきりした。世界が明るくなったような、気持ちが軽くなったような。けれど心の奥底ではもやもやした何かが残っている。  恋は盲目というが、本当にその人のことしか見えていなかったのかもしれない。周りが私をどう思っているかなんて気にもしていなかった。  髪型を変えると今まであまり話したことない人も声をかけてくれるようになった。髪型ひとつで交友関係が変化していくのもなんだか不思議な話だ。王子一彰もそのひとりだった。 「髪、切ったんだね」 「うん。可愛いでしょ」 「可愛い」  あまり話したことがないとはいえ、彼は良くも悪くも目立つ人だ。その彼が誰かに対して可愛いなんて言うのは聞いたことがなかったから、少し面食らってしまった。この人はさらっとそういうのが言える人なんだ、すごいな。言われなれてないこともあって思ったより照れてしまい、ごまかすように笑いながらありがとうと言った。  爽やかな笑みを浮かべたままの彼は何を思ったのかおもむろに手を伸ばすと、毛先を巻き込みながら私の項に触れた。二、三度撫でると離れていく。今の何?ぽかんと彼を見上げることしかできなかった。 「今まで隠れていたところが見えてるのって、なんだか唆るね」 「そう、ですかね……?」 「そうだよ。だからつい、普段ならやらないことをやってしまうし、言わないことも言ってしまう」 「はあ……」 「きみのせいだ」  そんなこと言われても私は何もしていない。  不穏な空気を感じ取り、距離をとろうと後退るが、同じだけ彼は詰めてくる。なんで、なんで。親しくはないものの彼のことは知っている。成績も運動神経も良く、ボーダーでは隊長を務めているという。その振る舞いから取っつきにくいかと思えばそんなことはなく、気さくで交友関係が広い。そして独特なネーミングセンスを持っているがそれは私には関係のないことだ。  だから今、目の前に立つ彼は知らない。そんな声で私を呼ぶ彼は、そんな目で私を見る彼は、知らない人だ。 「きみは彼に夢中だったから知らないだろうけど、」  いつの間にか壁に追い込まれていた。彼は壁に手をつき、覗き込んでくる。かぎなれないにおいがした。真っ直ぐにこちらを見る、あおい眼。 「とても魅力的なんだよ。眩しいくらいに」  そんなの知らない。知るわけがない。  壁伝いにずるずると座り込む。王子一彰なのに王子一彰じゃないみたいで、じわりと涙がにじんだ。あおが歪む。ああ、泣かないで、と彼の声がした。 「参ったな、どうしよう」  彼は心底困ったような雰囲気を醸し出し、そして。 「……攫ってしまいたくなる」  静かに放たれた言葉は、なぜか私の心にすとんと落ちてきた。世界が明るくなった気がしていた。気持ちが軽くなった気がしていた。けれど心の奥底にもやもやした何かが残っていた。彼に攫われたら、これを消し去ることができるだろうか。  そう思うと唇は勝手に言葉を紡いでいた。 「攫ってよ。どこか遠いところ、誰にも見つからないところへ」  彼は私の手を取ると跪く。 「仰せのままに」  私を立ち上がらせると、そのまま昇降口へ向かう。まさか本気で攫うつもりなのでは。あわてて声をかけるが、彼は笑うだけだった。  彼に手を引かれて校門を駆け抜ける。荷物は何もない。お金もスマホもない。何も持たずにどこまで行けるのだろうか。逃避行ではないけれど、こんな時間にこんなところで何をしているのかと後ろめたい気持ちはある。それも彼の横顔を見ていたらどうでもよくなった。私を見てくれる人。心ごとどこかへ攫ってくれる人。私はきっと王子一彰に囚われた。 2021.06