少し舌ったらずな「たいちょー」が鼓膜を甘やかに揺らす。最初は慣れなくてむず痒く思っていたその言い方は、今は別の感情を掻き立てる。随分と毒されたものだ。  王子隊作戦室にて。王子一彰は組み敷いた女を眺めながらそう思う。 ◇  ボーダーに所属する上で重要視されるもののひとつ、トリオンを生成するトリオン器官は、歳を重ねるごとに衰えていく。また、就職を機にボーダーを辞める者も三門市を出ていく者もある。そのためか組織の規模に対して二十代以降の戦闘員は少なかった。そんな彼らと面識がある隊員は限られており、多くは文字通り顔と名前程度しか知らない。そのうちのひとりが彼女だった。隊を組んでいない彼女の情報は少ない。昔は隊を組んでいたが何らかの理由で解散し、彼女だけがボーダーに残ったらしい。今はひとりで、あるいは臨時で他の隊と組み、防衛任務を行っているという。  王子が彼女と出会ったのは、王子隊として防衛任務にあたったときのことだった。  先に現場に到着していた彼女は生身のままで王子隊を待っていた。ボーダーの指定した警戒区域内で、覚束ない足取りでふらふらと歩いているように見えた。初めて彼女を見た樫尾は、小さな声で「一般人、でしょうか」と王子に確認をとる。王子は彼女の存在は知っているが、対峙するのも共に任務にあたるのも初めてだった。本当に、この人だろうか。  彼女らしき人影はふと立ち止まると振り返った。視線がぶつかる。その瞬間、ぞわりと背筋を這い上がる何か。王子は思わず身を固くした。一般人か? 「……いいや、」  一般人がこんな殺気を出すものか。  蔵内は緊張をはらんだ声で「今日一緒に任務にあたる人だよ、おそらく」と言った。樫尾は大きな目を瞬かせて彼女を見やる。殺気にあてられたのか少し震えていた。これから合同で任務だというのに、一体何を試されているのか。王子は表情を崩さずに彼女を見据えた。  ゆっくりと近づいてくる彼女に気圧されながらも後退らないよう踏みとどまる。誰のものかわからないが、ごくりと唾を飲み込む音がした。  表情がはっきりと見えるほど近くに来ると彼女は換装した。瞬きの合間に行われたそれと同時に殺気も消える。人好きのする笑みを浮かべた彼女に、王子隊は詰めていた息を吐き出した。 「王子隊の王子たいちょーだ」  あなたのこと知ってるよ、と彼女は言った。 「面白い戦い方をするひと。器用だねえ、私にはできないからすごいなあって思ってるんだ。今度個人ランク戦しようね、たいちょー」  へらへらと笑う彼女の真意が読み取れない。よろしくねと差し出された手を、王子はこちらこそと笑みを返しながら握った。蔵内、樫尾と順に握手をしていく。  近くで見る彼女は思っているより背丈も手も小さい。蔵内の体ですっぽり隠れてしまいそうだ。しかし先ほど飛ばされた殺気は鋭く、王子隊が束で戦っても勝てないのではないかと思ってしまうほど得体のしれない恐ろしさがあった。彼女は一体、何だろう。  そうして始まった防衛任務だったが、今回に限って王子隊と彼女の担当する区域でのトリオン兵の出現が多かった。現場では王子を司令塔とし、橘高のサポートで次々に撃破していく。データとしては戦い方も強さも知っているが、あらゆる隊と組んできたのだろう女は駒として申し分のない働きをした。まるで始めからその隊に所属していたかのように。  王子は背筋が震えるのを感じた。恐怖ではない、興味が湧いたのだ。駒のひとつとして動きながらも彼女は王子にプレッシャーをかけ続けていた。本当にそれでいいの?あなたなら私をもっと効果的に使えるんじゃないの?あそこは?ここはどうする?と。王子は次第に笑みを深める。彼女の思い通りにするのは癪だが、そんなに言うなら使ってやろうじゃないか。期待以上の働きを見せてくれよ。  そんな王子のオーダーを、彼女は完璧にこなしてみせた。――面白い。防衛任務の最中であるというのに、王子は彼女との駆け引きを面白く感じてしまった。  任務が終わり、いちはやく換装を解いた彼女を見た。視線が交わる。彼女は「面白かったよ」と笑った。「それは良かった」と王子が返す。 「またね、たいちょー」  少し舌ったらずなそれはむず痒い。王子は小さくなる背を見つめた。その瞳に宿るものが興味ばかりではないことを、彼はまだ知らない。  王子が女に興味を抱いたのと同じように、彼女もまた、王子に何かしらの感情を抱いたのだろう。防衛任務の日以降、これまで本部でほとんど見なかったのがうそのように彼女をよく見かけるようになった。それも王子隊の一員ではないのに王子を隊長と呼び、後をついて回る彼女の様子が散見された。まるで雛だ。雛であればまだ可愛いとでも思えたかもしれないが、彼女は人間、成人女性である。なんだなんだと好奇の目に晒されるばかりだった。しかし彼女は、そんなことを気にするそぶりは全く見せない。  周りの声を気にしないのは結構なことだ。しかし自分を求めて本部に顔を出しているのに、彼女は別の誰かに呼ばれるとほいほいついて行ってしまう。そのたびに王子の胸はざわついた。黒い靄がかかったような気持ちになる。そのくせ親元に帰る子のように駆け寄ってくる彼女を見ると靄は晴れた。我ながら単純なものだと自嘲する。  彼女は始めのうちは個人ランク戦をしようという誘いのみだったが、次第にプライベートな誘いが増えてきた。休みはいつなのか、この日は会えないか、遊びに行こう、ご飯に行こう。王子はそのすべてをかわしていた。己の理性を案じてのことだ。せめて彼女の前では余裕のある姿でありたい。そんな王子の葛藤などつゆ知らず、彼女は今日も彼を誘う。 「あのね、きみ」  彼女はきょとりとした顔で王子を見上げる。まるで無垢な子どものようだ。ぼくより長くこの世界を生きているのにどうしてそんな目ができるんだろう、と王子は少したじろぐ。ひどく澄んだ瞳はそこに映る己の隠したいもの全てを暴いてしまいそうなほどに綺麗だった。  彼女のことを知りたいと思って数週間、わかったことがある。彼女は純粋だ。心がずっと子どものままなのだ。楽しいから遊ぶ、面白いから好き。無邪気で、純真で、何にも囚われない。それを咎めるものも遮るものもない。だから、強い。なにもかも心のままに。おそらく先日の防衛任務も、彼女が合わせていたのではなく彼女に引っ張られていたのだろう。研ぎ澄まされたひとつの刃は、時として他の刃の斬れ味をも鋭くする。  そんな彼女の興味が今はすべて、王子一彰に向かっている。君のことが知りたいのだと、言われずとも理解できてしまう。彼女を独占しているのが自分だと思うと、王子は悪い気はしなかった。  あなたを知りたいというのは要するにあなたが気になっています、そしてあなたに好意がありますと言い換えることができる。彼女のそれは王子のものより透明度が高い。混じりけのない感情を受けて何も思わない人間がいるだろうか。王子だからまだ耐えられているものの、彼自身、己の感情をたびたび制御できていない自覚があった。 「女性がそんな簡単に誘っちゃダメだろ」  最初は年上相手だからと敬語で接していたが、いらないと言われてからは取っ払ってしまった。 「どうなってもしらないよ」  王子としては、そんな簡単に男を誘ってその気になってしまっては困るだろうという意味で言ったのだが、彼女は違う意味に捉えたらしい。 「……たしかに。何かあったら責任を問われるのは私の方だ」  うんうんと頷く彼女に認識の齟齬を感じるも追及はしなかった。  どうしたらわかってくれるかな。妥協案というわけではないけれど、と前置きをした王子は「うちの作戦室、くる?」とたずねた。  今日はゲストを招いていると隊員に連絡、既読がついてから女を作戦室に入れる。王子はきょろきょろしながら入室する彼女を眺めた。 「モニター二つ、大きなソファもある……!」 「珍しい?」 「うん、私たちの作戦室にはおいてなかったから」  あっさりと触れられたそれは、数少ない過去の彼女の欠片だ。彼女が隊を組んでいたというのは本当だったらしい。 「座っていい?」 「どうぞ」  彼女はいそいそとソファに回り込み、そっと撫でる。押す。柔らかに沈み込む手を見て「おお……!」と声を漏らす。そして感触を楽しむようにゆっくりと腰かけた。  そんな彼女の様子に思わず笑みがこぼれる。かわいいひとだ。そう思ってからはっとした。今、ぼくはなにを。 「いいねこれ。私も王子隊に入っちゃおうかな」 「いつでも歓迎するよ」 「でも私はひとりのほうが強いって言われて隊を解散したんだよね。たいちょー、どう思う?」  王子を見上げてこてんと首を傾げる。ああもう、隙だらけじゃないか。  王子は「そうだな、」と言いながらソファを回り込み、彼女の横に座る。 「たいちょー?」  おもむろに体を寄せると、王子の顔を見ながらぽかんとしていた彼女も何かを察知したのか離れていく。王子が詰める。離れる、詰める。継ぎ目に引っかかってソファに倒れた彼女の上、王子は覆いかぶさるように手をついた。それはさながら躾のなっていない獣を閉じ込める檻のようだった。  さすがの彼女もこのままでは危ないと思ったのだろう。ようやく抵抗を見せるが、弱々しいそれは王子にとっては戯れにしか思えなかった。本当に嫌ならぼくをスコーピオンで刺してしまえばいい、きみの得物だろう? 「きみは強い。けれど守るものがある人には負けちゃうね。強い思いを抱いて何かを守ろうとするとき、奇跡は起きる。信じれば魔法だってあるかもしれない。きみに足りないのはそこだ、ひとりで強くなりすぎた」  彼女の顔の横に肘を付き、もう片方の手は無防備な腰を撫であげる。頬を色づかせながら小さく震える彼女は、もはや子どもではなくひとりの女の顔をしていた。王子はゆっくりと体重をかけていく。二人のあいだにあった空間がなくなって。服越し、己の胸部に押しつぶされるように二つの膨らみを感じる。王子が身動ぎするたびに彼女はぴくりと反応した。  息がかかりそうなほど近くにある彼女の顔を、王子は無言で見つめる。澄んでいた瞳は潤んで揺らめいている。ひどく扇情的だった。子どものような彼女の女の部分を引きずり出したのは王子だ。その事実は彼を悦ばせるのに充分だった。内に秘めてひた隠しにしていたはずの劣情が次々に溢れ出す。  もっと知りたい。もっといろんな顔が見たい。歪ませたい。怒らせたい。喜ばせたい。泣かせたい。無垢な存在を手折るのはぼくでいい。ぼくがいい。  そうして王子は彼女への思いに気づく。誰かを好きになったことも付き合ったこともその先だって経験済みだ。けれど、こんなのは初めてだった。己の感情を持て余す。どうしようもなく焦がれる。手に入れたいと思ってしまう。自由に飛ぶ彼女に惹かれたのに、その翼をもいでしまいたいだなんて。澄んだ瞳の彼女に惹かれたのに、その瞳を曇らせたいだなんて。 「っ、たいちょ、」 「違うよね、ぼくの名前。ほら、言ってごらん」 「……お、おうじ、……かずあき」  甘さを含んだ女の声で呼ばれる名前は、どこか知らない国の言葉のようだった。良い子だ、と囁きながら彼女の頭を撫でる。  ここまでだな、と王子がすっと体を起こす。溢れ出したものはとりあえず押し留めた。理性の辛勝である。涙目の彼女は何かを言おうとしてやめた。縋ろうとしていた手も空を切る。そんな彼女を横目に、王子は少し崩れた身なりを整えた。 「とまあ、こんなことになるかもしれないから気をつけることだ」 ぼくたちは何も知らない子どもじゃないんだからね、と。 「わ、わたし、」  彼女の小さな声が王子の動きを止める。 「こんなの、はじめて、こんな気持ちはじめて」  どこか興奮したような声音で続ける。 「ね、これは何?教えて、もっと知りたい、ねえ、かずあき」  世界を初めて知った雛のように。目の前のものが世界の全てであるように。知らないものを知りたい、全部教えてほしい。王子を見つめる瞳はこの期に及んでなお澄んでいる。  どろり。王子のそれは再び、溢れ出す。理性はどこかへ押しやった。  そんな目で見てくれるな。王子は彼女の目元を手のひらで覆う。わずかに開かれた小さな口に舌をねじ込んだ。溢れ出る何もかもを流し込むように。ぼくを見て。見ないでくれ。気づいて。気づかないでくれ。相反するそれらは王子の心臓をキシキシと締め付ける。  ゆっくりと離れた唇は名残惜しそうに二人を繋いでいたがすぐにぷつりと切れた。彼女の口元がゆるやかに弧を描く。王子は目元から手のひらを離しながら「何を笑っているんだい」と頬を膨らませた。 「かわいいね、かずあき」  かわいそうで、かわいい。  少し舌ったらずな声が彼の名を呼ぶ。彼女は恍惚とした表情で王子を見上げていた。  ひとりではなくなったとき、自由ではなくなったとき。彼女は誰のためにその強さを振るうのか。王子は彼女の唇を親指でなぞる。そうしてもう一度、口付けた。今度は、祈りを込めて。 2021.07