失恋してないけど髪を切った。  これは世界への小さな反抗だった。  物心ついた頃から髪は女の命だのなんだのと言われてきた。家族だけでなく、園や小学校の先生、近所のひとたち。みんな示し合わせたかのように同じことを言っていた。それが気持ち悪いと思ったのはいつからだったか。女の子は、女の子だから、女の子なのに。女の子らしくせよ。まるで呪いのようにまとわりつくこの言葉たちを振り払って生きることは、幼い私には難しいことだった。だから受け入れているふりをした。  いつまで誰かの言うことを聞いていればいいのだろう。ふと、もうそろそろいいんじゃないかなと思ったのだ。ずっとある程度の長さに伸ばしていた髪を梳く。一緒にこの世界を戦ってきた戦友。けれど、私はあなたを越えてその先へ行く。そうして髪を切ったのだ。世界への、家族への、小さな反抗。  心臓は突いたら死ぬ。血は流し過ぎたら死ぬ。髪は切っても死なない。長かろうが短かろうが死なない。  鏡の中にはばっさり切って頭の軽くなった私がいる。見慣れないシルエットだ。後頭部に手をやるといままでそこにはなかった毛先に触れた。首も触れる。不思議な感覚だった。  呆気なく捨てられていく髪の残骸に心の中で別れを告げる。さようなら、私の一部だったもの。さようなら、これまでの私。  家に帰ったら案の定いろいろ言われた。しかし切ってしまったものはどうすることもできないと、家族は次第に何も言わなくなった。もうそんなことしないでよと言われてとりあえずその場では頷いておいたが、しばらく伸ばすつもりはない。  重みでごまかせなくなりハネやすくはなったものの、洗いやすいし乾かしやすいし、何より括る必要がないのは楽だ。邪魔になることが圧倒的に減って、ストレス減少。いいこと尽くし。  髪型を変えると友だちはもちろん、あまり話したことのないひとまで声をかけてくれるようになった。髪型ひとつで交友関係が変化していくのもなんだか変な話だけど。気分もすっきりして、笑うことが増えた。まるで呪いのようだったものから少しだけ解放された気がした。  私は世界に抗ったのだと信じていた。   ◇   「あれ、随分と思い切ったね」  廊下ですれ違ったクラスの違う彼――王子一彰が立ち止まる。  王子とは昨年同じクラスだった。優等生といわんばかりの立ち居振る舞いや態度には近寄りがたさを感じたが、口を開けば気さくで面白く、妙に交友関係が広い。そして相手を自分のペースに引き込むのが異様に上手いひとだと思った。  クラスメートだったよしみか、今でもたまにこうして声をかけてくれる。 「わかる? へへ、髪切った」  笑顔でピースをして見せる。今の私は気分が良かった。  彼は爽やかな笑みのまま「良いね、そのほうがきみらしい」と言った。ふと、引っかかりを覚えて首を傾げる。彼はあまりそういった言葉を使わなかったような気がするのだが。 「気づいた?」 「なに、」 「きみ、らしいって言葉が嫌いだろ」  先生がこれを言うとよく眉をひそめていたよ、と。  彼の言うとおり、「らしさ」という言葉が好きではない。世間ではあなたらしくなどと個性を尊重するような表現をしておきながら、その実、既存のカテゴリーにしか当てはめようとしない。そこから外れた者は理解しようとすらしてもらえない。尊重されるのは個性ではなく、そのカテゴリーに当てはめることができるか否かだ。誰もが「らしさ」の犠牲になっている。  でもそれって、誰でも一度は思ったことがあるのではないだろうか。たとえば子どもらしさとはこういうものだという考えがあるとして、それをすべての子どもに適用させようとするのは不可能だろう。だってひとりひとりに意思があり、好き嫌いがあり、異なる環境で育っているのだから。  カテゴリーでいえば高校生もそうだし受験生もそう。とりわけ生まれてから死ぬまでついて回るのが性だ。女は、女だから、女なのに。女らしくせよという言葉が嫌いだ。嫌いだからといって無関係でいられないことは理解しているつもりだ。だからそれに縛られながら、ときに迎合しながら、ときに抗いながら生きている。  髪は女の命である。昔はそうだったのだろう、それを否定はしない。けれど今を生きる私は違う。そんなの、くそ喰らえだ。  わかっていながらあえてその言葉を使ってきた彼に眉をひそめる。 「これは悪いばかりの言葉ではないよ。きみは嫌いだろうけど、ぼくはきみらしくて良いなって思ったから「きみらしい」って言ったんだ。褒め言葉はちゃんと受け取ってくれないと」  苦い顔をしている私に構わず、彼は続けた。 「とかくにひとの世は住みにくいってね。きみの気持ちはよくわかる、それは現代において尊重されるべきものだ。けれど誰にでもできることではない。ひとによってはきみのような生き方は眩しすぎるかもしれないね、眩しさはときに影を濃くしてしまう。どう? 芸術とか興味ない?」 「え? 待って待って、フリが雑い。なに、何のお誘い? あやしい絵画とか買わされる?」 「総合芸術のお誘い」  彼がぺらりと見せてきた一枚の紙。そこには最近話題になっているタイトルが書いてある。 「……映画だよね、それ」 「総合芸術だよ」 「しかも日付今日って何? 唐突すぎじゃない?」  当日上映の映画に誘うやつがあるかと思ったが、ここにいた。事実は小説より寄なり。ちょっと違うか。  それよりも彼がこういう、言ってしまえばありきたりを捏ね回したようなものに興味を持つとは思えなかった。そう思ってから、私は彼の好きなものも嫌いなものも知らないのに、上辺だけで彼をそういうものに興味がないひとだと決めつけようとしていたことに気づく。  抗ったつもりで、抗えていなかったのかもしれない。自分だけが抗ったって意味がない。私がそういうものだと相手を決めつけてしまったら、それはいままで忌避してきたものと何も変わらないのだ。  何かを察したのか、彼はため息をついた。 「押し付けられたんだよ、ぼくはこういうのは好みじゃない」  彼は「本当は適当に誰かを引きずっていこうと思ってたんだけど、気が変わった」などと言いながら、チケットに唇を落とした。唇を? 落とした? そしてそれを平然とした顔でこちらに差し出す。 「きみとだったら楽しめるかもと思って」 「私、ひとことも興味あるとか行くとか言ってないけど」 「そうだね」 「この手は何?」 「チケットを渡そうとしてる」  マイペースすぎないだろうかこのひと。 「放課後に予定でもあるのかな」  ある、と答えれば良かったものを馬鹿正直に「ないけど」と答える。それが失敗だったと気づいたときには遅かった。彼は笑みを深めて「じゃあ問題ないね」と言った。 「ホームルームが終わったら迎えに行く。逃げたらだめだよ、どこまでも追いかけていって捕まえるからね」  彼は差し出していたチケットをしまう。その手がこちらに伸びてきて私の頭を撫でたかと思うと、毛先を巻き込みながら項に触れる。二、三度くすぐるように撫でると離れ、「またね」と彼は行ってしまった。相変わらず颯爽と歩く姿はこの高校の校舎には似合わない。    一部始終を見ていたらしい水上が廊下側の窓からにゅっと頭を出し、「えげつな」などと呟いたのが聞こえた。 「見てたなら助けてよ」 「あんなわっかりやすい火に入るやつおるかっちゅーねん。しかもあれ、おまえが断ってたら俺が犠牲になる予定やったやつや」  助かったわありがとう、なんて言葉をもらうが今はこれっぽっちも響かない。 「ま、楽しんでき。なんかあったら明日聞いたるし」  ほな頑張りや、と言い残して水上は教室に引っ込んだ。  ひとり、廊下に立ち尽くす。王子のことがわからない。けれど、彼は私を否定しなかった、決めつけるようなことも言わなかった。私らしい、というのは褒め言葉だと言っていた。そういう意味で使われることもあるのだと知らなかった。今まで嫌でしかなかったその言葉に少しだけ歩み寄ろうという気持ちが芽生える。私の方こそ、そういうものだと決めつけていたところがあったのだ。  毛先をくしゃりと握りしめる。彼の言動を思い出す。じわじわと頬が、触れられた項があつくなってきた。どうしよう、こんなの、隠せるものが何もない。    ホームルームが終わって教室を飛び出すと本当に王子が待っていて、こちらを見るなりほころんだ笑みを見せるものだから、いろんな感情が押し寄せてきて思わず腰を抜かしてしまうのは少し未来の話。 2021.08