「いっけな〜い、ちこくちこく!」  月曜日の朝。一週間の始まりの日。  いつもギリギリセフト(アウト寄りとか言わない)なのだが、今日は、正直、かなり、ヤバい。食べ歩きはよくないと理解していながらも、時間に追われているから仕方がないのだと言い訳をしてくわえる。そのぶん早く起きればいいとどこからか声が聞こえた気がするが気のせいだろう。気のせいだ。あそこの公園の木の精かも。  元気な太陽に照らされながら食パンをひとかじり。なんとこの食パン、ただの食パンではない。丹精込めて作った食パンなのだ。バレンタインなどの行事でお菓子の技術は年々向上していくのだが、それ以外はてんでだめ。やる気が出ないともいう。おかずのレパートリーすら増えず、ふりかけが増えていくばかり。いろんな味のふりかけを開発してくれてありがとうございます、おかげさまでお弁当生活が彩られています。そこで一昨日ふとパンを作ろうと思いたち(なぜ?)、昨日実行に移した結果がこの食パンだ。焼き立ては本当にふわふわでおいしくて一生食パンを食べて生きていきたいと思ったほど。一日経ち、トースターで焼いてサクふわのおいしさに。なにより自分で捏ねて作り上げたパンは愛おしい。愛だ。愛がこの手の中に。食パンの形をした愛が。  愛をくわえ直し、見慣れた景色の中を足早に駆け抜ける。今の私は無敵だ。なぜなら人類が求めてやまない愛を知っているのだから。自転車で走っていくあのひとも、バスを待っているあのひとも、今家から出てきたあのひとも。誰も私には敵わない。  愛もとい食パンでいっぱいだった頭は、突然の衝撃により強制的に現実に引き戻された。ぐらりとバランスを崩した体、「おっと、」誰かの声、ゆっくりと落ちていく食パン――愛。指先の一つも動かせない自身とは違ってみるみる地面に近づいていき、そして。  ぱふん。  気の抜けた音とともに膝から崩れ落ちた。愛の果てがこんな、こんなことって。落ちた愛の前では人間はなんて無力なのだろう。こんなにも愛しているのに。神様はひどい。やはり食べながらの登校は罪だったのか。これが、これこそが罪を犯したものに与えられる罰なのか。  悲しいかな、三秒はとっくに過ぎ、さらにはもう蟻が群がりだしていた。日本、虫まで働きすぎでは?  ショックのあまり座り込んだまま固まっていると、誰かがしゃがみ込んだのが見えた。ああそうだぶつかってしまったんだった、謝らなきゃ。そう思っていると。 「これをお食べ」  スッと紙袋が差し出された。とたんに芳しい香りが鼻腔をくすぐる。開いた紙袋から見えるのは大量の――クロワッサン。 「い、いいの?」 「ぼくのおすすめだからね、味は保証するよ」  有り難くひとつを手に取り、食む。さくさくの生地、口の中にふわりと広がるバター、しあわせの味、愛のかけら。 「……おいしい」 「それは良かった」  立ち上がった彼は「さて、」とどこか遠くに視線を向けた。クロワッサンをサクサク食べながらその姿を見上げる。 「そろそろ本鈴が鳴る時間かな」  にこりと微笑んだ彼は「急いでいたんじゃないのかい?」と言った。「アッ!」あわてて立ち上がり制服の汚れを叩き、転がしてしまったかばんを拾う。遅刻のことなどすっかり吹っ飛んでいた。あれ、でも。 「そっちも急がないとだめなんじゃ……?」  クロワッサンを分けてくれた彼、王子一彰。クラスメート。彼がなぜこんなところに。私が遅刻寸前ということは彼も遅刻寸前なのでは? 「ここから学校までは数分かかるね」 「はい」 「そしたら遅刻確定だ」 「です」 「ところがぼくは抜け道を知っている」 「えっ!」 「その道を通れば一分で着く。どう?」 「よろしくお願いします」  あはは! と王子一彰が笑い声を上げた。珍しい。 「これでぼくたちは共犯者だ」  行こうか! と手を引かれ私たちは走り出す。落としてしまった食パンに心の中でお別れを告げ、前を行く彼の姿を捉える。ミルクティー色の髪が揺れている。もつれそうになる足を必死で動かし、着いていく。間に合っても間に合わなくてもどっちでもいいかな、なんて思いが脳裏をよぎる。だって私たちは共犯者だ。何も怖くない。  本鈴が鳴るまであと――。 2022.07 #shokupan_senshuken