いつもよりちょっとだけ背伸びをして作ったお菓子と、ちょっとだけ手の込んだラッピング。はしっこにヘンな折れ目がついてしまったそれは、家と学校とを実に二往復していた。つまり――渡したい相手に渡せなかった、ということだ。
◇
「今年は何かなって楽しみにしてたんだー!」
毎年この時期にはお菓子を量産し、タッパーに詰めたり袋詰めしたりして友だちやクラスメートに配り歩く。お礼にと可愛くラッピングされたものがスタンプラリーよろしく次々と貯まっていく。そして普段あまり話さないひとともコミュニケーションのきっかけになることがある。
レシピ通りに作るものだ、美味しくないわけがないけれど、楽しみにしてくれていると知ってくすぐったい気持ちがした。
「で?」
「で……?」
「本命だよ、本命」
友だちの澄んだ瞳に息が止まる。ほんめい――本命。第一候補、特別な誰かに渡すもののこと。
彼女とバレンタインの話で盛り上がった二週間ほど前に「今年は最後だからちょっと頑張ってみようかな」とぽろっとこぼしたことを覚えていたらしい。
私はこの春、三門市を出る。その前にやり残したことをやってしまおうと思ったのだ。本命チョコ(もはやチョコではないただのお菓子類だが)を渡すのもそのひとつ。バレンタインのふわふわ甘い空気に乗っかれば、普段できないことでもできそうな気がした。
「……用意は、ある」
「ほうほう」
「持ってきても、いる」
「じゃああとは渡すだけだね!」
それがとてつもなく難しいのだが。というより、既にタッパー詰めの量産お菓子をあげてしまったのだ。
休み時間、たまたま彼の席の近くを通り、たまたま彼の近くにいた友だちに差し出したところに「へえ、これきみが作ったのかい?」と覗き込まれた。彼――王子一彰に。
びっくりしすぎて固まる私をよそに、彼は「いただいても?」と聞いておきながら返事を待たずに素手でタッパーからお菓子をつまみあげ、数秒眺めてから口に入れた。咀嚼。嚥下。十秒にもみたないはずのこの時間が妙に長く感じられた。無意識に彼のくちもとをじっと見つめていたらしい。ゆるめてふ、と息を吐きだした彼に意識を引き戻され、あわてて視線を上げる。見上げた先、あおい瞳がゆるやかな弧を描いていた。
「去年も配り歩いてなかった?」
肩が揺れる。知ってたんだとか、見てたんだとか、やっぱりとか、どうしようとか。言葉が浮かんでは音にならず消えていく。冷や汗が止まらない。
「でもぼくにはなかったね。どうして?」
言葉に詰まってしまった私を見て、彼は「ああ、ごめんね。困らせたかったわけじゃないんだ」と言った。
――白状しよう。私は王子一彰に近づきたかったが、それ以上に近づくことができなかった。近づかせてもらえなかったのではない。これは自分自身の問題だった。
彼とはクラスメートだったことがあるし、班学習もディベートも意見交換もしたことがある。柔軟な発想、誰かを置いてけぼりにしない広い視野、聴くものを惹きこむ話し方、うまく言葉が出ないときに的確に入れてくれるフォロー。揺らぐことなく自分をしっかりと持っている彼に好意も尊敬も、憧れすら抱いていた。誰にも言ったことはないし、言うつもりもないけれど。そうして付かず離れずの関係を保ち今に至る。
あおが、ちらつくのだ。彼と向き合ったことなんて数えるほどしかないけれど、全身が痺れたように動けなくなったり、苦しくなったり、逃げたくなったり。なのに彼を追いかけてそのあおを見たくなる。私を捉えてはなさないあおの瞳が、私の持っていないすべてを持つ彼が――おそろしくもあった。
友だちやクラスメートに配り歩く。でもそれは教室の端から端、廊下の端から端、校舎の上から下を練り歩くわけではない。だから故意に、意識的に。特定の人物を避けることだって可能なのだ。私は今日まで、王子一彰になにかをあげたことはない。
ではなぜ彼に本命を渡そうと思ったのか。つまるところ思い出作りだ。それも自分自身のためのもので、彼の都合はガン無視。同級生のほとんどとは今後の人生で再会するかどうかもわからない。それは王子一彰に対しても同じことだ。同級生以上友だち未満。一歩進むには少しだけ勇気がいる距離感。
最後だから、だから彼の記憶のほんの片隅、はしっこのほうに「そういえば誰かになんかもらったな」ていどでも残ればいいなと思って。忘れられていく存在だからこそ、最後に少しだけあがきたかった。たくさんの感謝とこれからの祈りと、ひとさじほどのひとりよがりな思いを込めて。
ここでタイミングよく先生が教室に入ってきたため、私は逃げるようにその場をあとにした。
「――と、いうことがあって」
「なんてこった……」
大げさに天を仰いだ彼女は「作戦会議やるよ!」と私の腕を引っ張ったかと思うと、人気の少ない校舎裏に連れ込まれた。
「まずは呼び出すところからだよね」
「初手のハードルが高すぎる」
「最後なんでしょ? じゃあなりふりかまってられないじゃん」
「それは、そう、だけど……」
すると突然彼女が人差し指を立てて静かにのジェスチャーをし、物陰に隠れだした。思わず手のひらで口を押さえ、彼女にならう。
「誰か来た」
ひっそりと告げられたそれをかき消すように、足音と話し声が大きくなっていく。おそらく男女、そして二人。今日わざわざこんなところに来るくらいだからきっとアレだ。盗み見も聞き耳もよくないことだけどここから動けないし、ちょっと、いやかなりどきどきしてしまう。それにしても、片方はなんだか聞き覚えのある声のような――。
「ごめんね」
やけにクリアに聞こえた言葉。強ばる全身。これは、王子一彰の声だ。
友だちがカーディガンの裾をぎゅうと握る。
「いえ、ありがとうございました。……それでは、また」
「うん。また」
私に言われたものではないのに、重力が二倍になったような感覚。この「また」は二度と来ないものであると本能的に理解してしまう声音だった。
足音が完全に去ってから、無意識に止めていた息を吐き出す。
「いまの、忘れよっか」
「そうだね、うん、私たちは何も見てないし聞いてない」
どうする? どちらともなく目を合わせ、そして逸らした。作戦会議はここで終了。私たちはひとことも言葉を交わすことなく教室に戻ったのだった。
◇
渡せないまま三往復目に差し掛かった。
ここまでくるとひとに渡すのは日持ち的に心配なので、自分で消費するしかなくなる。
言い訳ばかりが募っていく。べつに仲良くはないし、そもそも渡す必要もないし、ていうか告白するわけでもないし。……思っている以上に、あの日のことを引きずってしまっている自分がいる。
放課後、旧校舎二階。電球が切れているうえ、窓の外は木々が生い茂って薄暗く、西日がまだらに射し込んでいる。
ラッピングを開けていく。自分で開けて気づいたが、手の込んだラッピングは開けにくい。渡さなくてよかったかも、なんて思う。
形の綺麗なお菓子をつまみあげる。いくつか作ったなかで、いちばん綺麗にできたものを選んだ。
口に含む。ゆっくり咀嚼。おいしい。知ってたけど。見た目のいいものは味もおいしく感じる。
食べ終わってしばらくぼうっと誰もいない廊下を眺めていたら、なんだかふっきれたような気がした。そろそろ夜の帳が下りる時間だ。暗くなってからの学校、それも旧校舎は落ち着かない。はやく帰ろうと立ち上がった、そのとき。
「――おや、」
上履きとリノリウムの摩擦音。ここに来ていたんだね、と穏やかな声が鼓膜を揺らす。顔をあげなくてもわかる。だってさっきまでずっとあなたのことを考えていた。――王子一彰。あなたのことを。
「珍しい」
「王子くんこそ」
「そうかな。そうかもしれない」
心臓が口から飛び出しそうだ。耳の奥でうるさいこの音は何。手のひらからも足の裏からも汗が吹き出している。
必死でいつも通りを装う。声が震えていないといいのだけど。
「もう遅いし、帰らないと」
「うん、そうだね」
「あの、」
遮るように前を立たれると帰れないのですが。見上げた先ではいつも通りの笑み。実は、と口火を切ったのは彼だった。
「きみに言わなきゃいけないことがあって探していたんだ」
「それは、その、ご足労いただきありがとうございます」
「まさかこんなところにいるとは思わなかったけれど」
言わなきゃいけないことがあってと彼は言った。心当たりはあの告白しかない。バレてないと思っていたがバレていたのだろうか。数日間私たちは泳がされていたのだろうか。そして今、追い詰められている、ということだろうか。
「これ、あげる」
ずいと差し出された彼の手には、どこかで一度は見たことのあるチョコレートブランドの名前が印刷された小さな袋がぶら下がっていた。
え、これ、何? 袋と彼の顔を高速で見比べる。チョコレートなのはわかるけど、この状況がわからない。
「受け取ってくれないのかい?」
「えっと、これは?」
「逆チョコ」
世界でいちばん王子一彰に似合わない言葉だと思った。
「きみがちっともくれないから」
「私のせい?」
「うん。きみのせい」
何がなんだかよくわからないまま、袋もとい逆チョコを受け取る。なのに手のひらは引っ込まず、こちらに差し出されたままだった。
「ぼくには?」
もちろんあるんだよねと言わんばかりの圧を感じるがしかし。
「食べちゃった……ついさっき……」
「なんて?」
「さっき自分で食べちゃった!」
ふ、と息を吐き出す音。次いで笑い声が廊下に響いた。恥ずかしいやらいたたまれないやらで落ち着かない。
「用意はしてくれてたんだ?」
「まあ、はい。一応」
「そうか。……嬉しい」
その声があんまりにもとろけそうな甘さを含んでいて、思わず後退ってしまう。――それ以上はダメだと頭の中で警鐘が鳴り響く。はやく、はやくこの場から抜け出さないと。そうじゃないと。
「来年、期待してもいいかな」
ああ、どうしよう。あおに絡め取られて、もう頷くことしかできない。あと少しで三門市から出ていくのに。彼に会うこともなくなるのに。戻らないかもしれないのに。当たり前のように未来のことを話す王子一彰が、関係が変わろうとしているこの瞬間が、ひどくおそろしく感じた。
連絡先を交換し、一覧に並ぶ「王子一彰」の文字を見る。これで連絡したいときはいつでも連絡できてしまう。隠れたくても隠れられない。逃げたくても逃げられない。彼から送られてきたメッセージとスタンプは、きっと一生忘れられないものになる。
2023.02