お疲れさまですと掛けられた声に、交代の時間であることに気がつく。  明け方頃に発生したイレギュラー門は既に閉じている。そこから侵入してきたトリオン兵も殲滅した。いつも通りの朝だ。  ぐっと伸び、深呼吸をする。仮初のからだとはいえ、朝の冴えた空気は心地よく感じる。  そうして声を掛けてきた男――王子一彰を振り返った。  まだ高校生の身である彼は、防衛任務とはいえ夜間帯を担当することはめったにないのだが、今回は個人的な交渉の末に交代したのだと聞いた。誰だろう、心当たりのある顔がいくつか浮かんでは消えていく。  慣れない時間帯の任務だからか、彼の顔に疲労が見える。帰って休むのが最善なのは明白。けれど。悪い大人だなー私、と思いつつ。 「このあとちょっと時間ある?」  彼は考えるそぶりを見せるが、いやなものはいやだと即答することを知っている。ならば答えはひとつ。 「少しなら」 「よし。お姉さんと悪いことしようか」  見上げた先、あおがゆっくりと瞬いた。    ◇    王子一彰を連れて向かったのは、警戒区域にある小さな公園。理由があろうとなかろうとここを越えることは許されていない。けれど、ほんのちょっとならお咎めなしなのは経験済だ。  訪れる者のいなくなったその場所は、あの日――最初の大規模侵攻があったときのまま、時間が止まっている。  ここに来るまでの別の場所は記憶よりも荒れていたから、私の知らない戦闘があったのだろう。 「私ね、ここで遊んでたんだ」  ちっさいときね、と付け加える。 「不思議だよね。もうここに住んでいないし、べつに愛着とかあったわけでもないのに、ふと思い出すことがあって」 「あなたの大切な場所、ということですね」 「……大切な場所。そうかも」 「そんなところに連れてきてもらえて光栄です」 「疲れてるのにさらっとそういうことが言えるの、紳士だねえ」 「またまた」  劣化の進んだベンチに腰掛ける。  時間が止まっている。それは気持ちの話で、この公園だけでなく警戒区域や放棄区域のすべてが私たちと同じように一日、一ヶ月、一年と時を重ねている。時間は止まってくれない。  疲れたからだに朝日は眩しくて目を眇めていると、ふと影ができた。王子が日を遮るように立っている。  座らないの? と横を指すが、彼は首を振るだけだった。  太陽が王子一彰の輪郭を浮かび上がらせる。若者、青年、高校生。呼び方はなんでもいい。彼が、彼らの未来が明るいものでありますようにと願わずにはいられない。それが私の、私たち年長者の未来に繋げられる唯一のもの。 「こうやって朝を迎えるたびに、ああ今日も生き延びたって思うよ」 「何度も?」 「うん、何度でも」  いくらトリガーがあるからって、換装体だからって、可能性がゼロになるわけではない。生身より少し頑丈になって、少し武器が使えるだけ。生き残る手段が増えるだけ。この「生き残る手段が増える」というのが、とても大きなことではあるけれど。 「ひとりひとり理由があって、事情があって。でも、何かしらを抱えてここにいる。戦うという手段を選んでる。それは私も同じ」 「そうですね、ぼくもです。面白そうというのは本当のことだ。けれど入隊したのには別の理由がある」  そこで彼は押し黙る。先を促すが、ひみつだとでもいうように肩をすくめられた。ミステリアスが魅力のひとつであることを知っている顔。 「教えてくれないんだ? 本当の理由」 「ええ、まあ。これも一興ですから」    私たちの関係はボーダーの先輩と後輩に留まっている。べつに先に進むことも、後に引くことも考えていない。だからボーダーが消えてしまったらこの関係も終わる。儚いと思うだろうか。いやさ、そういうものだろう、人間関係なんてのは。  でも、実に不思議なことに。慕ってくれているという実感があると嬉しいもので。それが続くと特別扱いもしてしまうもので。餌付け、をしたくなるもので。もっと実感がほしくなってしまうのだ。そんな己を傲慢だなと思いながらも欲は肥大していく。こんな大人になるはずじゃなかったのに。  冷静な自分は「やめておきなよ」と言う。欲にまみれた自分は「やってみなよ」と言う。  たかだかこんなことで。 「王子ならなんでも許してくれると思うんだけど」 「程度によりますが、あなたであればだいたい許せますよ」 「寛容。嬉しい。これあげる」  バッグから取り出し、ポイッと放り投げた小さな箱。突然のこととはいえやすやすと受け取った王子の片手に収まる大きさの――チョコレート。 「これは、」 「いつもお世話になってる御礼」 「お世話されてる自覚あったんだ」 「ひとことよけい!」  ふふ、と彼が微笑む。「ありがたく頂戴します」と箱をカバンの中にしまうのを見つめた。 「ちょっといいとこのやつだから味わってね」 「手作りは苦手?」 「いや需要ないじゃん。おいしいものあげたいし」 「ちょっとだけ気にはなりますが……またいつかの機会にお願いします」 「そんな機会はない」 「どうでしょう」  案外早く来るかもしれませんよ? と彼はウィンクをする。なんてキザな、しかしなんて絵になるしぐさだろうか。  ちょっとドキドキしながら選んだことも、拒否されたら悲しいなと思いながらも渡したことも、ぜんぶ全部悟られていませんように。    立ち上がってぐうっと伸びをする。  そろそろ街が動き出す時間だ。私たちの夜が終わる。 「付き合ってくれてありがとう。ごめんね、大事な時間をしょうもないことに使わせて」 「とんでもない。あなたに連れてもらわなければここは知らない場所でした。ありがとうございます」 「……また、付き合ってくれる?」 「あなたが望むなら、何度でも」  二人並んで警戒区域を越え、市の中心部へ向かう。日常がここにある。    連絡先を知らない。好きなものを知らない。嫌いなものを知らない。どこに住んでいるのか、誰と住んでいるのか、趣味も特技も知らない。  ボーダーがあるかぎり、ここに来さえすれば顔を合わせることができる。同じ隊員であり仲間でもある。同じ命を懸けている。  私たちは、生きている。 2023.02