年下の男の子の前で涙を見せるのは、なけなしのプライドが許さなかった。それも友人の隊の、たいして仲良くもない子だ。親しくない人間に目の前で泣かれるなんて、彼を困らせてしまうだけだというのに。なのに、私の顔を見て全てを理解したかのように人目の少ない場所へ連れて行こうと引いてくれるその手が、その背が、ふわふわ揺れる黒髪が、脆い涙腺を刺激するには充分すぎるほど眩しかった。
呼吸が乱れる。声が詰まる。それでも涙は出すまいと、彼に引かれている手首の先、拳を固く握り締める。いま力を緩めたら決壊してしまうと、自分でも理解していた。
「おれは何も見てませんから」
背を向けながら彼が言う。必要以上の言葉はいらない。彼に絆されるのは時間の問題だった。
握りこんだ拳に彼の手が添えられ、ゆっくりと指が絡んでいく。拳をほどかせるように。力を抜かせるように。固く閉ざしていた心までもを溶かすように。
「……絶対に、見るな」
「隠岐、了解」
ひとしきり涙をこぼすと少しだけ気分がすっきりした。人目の少ない場所へ移動してからも律儀に背を向け、こちらを見ないようにしてくれていた彼に声をかける。
「ありがとう、隠岐くん。ごめんね」
気まずそうな顔で振り返った彼はふいと目をそらすと、小さな声で「べつに、」とこぼす。
「謝らんでええですよ」
そういう日もあるやろうし、と彼は言った。
生駒隊の隠岐孝二とは、友人である隊長の生駒を通して知り合った。といっても、生駒によるさっぱりとした紹介のみで、それ以降に交流したことはない。だから彼のことはよく知らない。どういう性格で、どういう人間なのか。好きなものも、嫌いなものも知らない。こういうときに見てないふりをしてくれるのだということも。慰めも励ましも何もいらない。今はただ、沈黙が有り難い。
「君は優しいんだね」
ぽつりと呟く。
「とても優しい」
してほしいことをしてくれる真綿のような優しさに、全てを放り出して甘えてしまいそうになるからだめだ。張り詰めていたものがゆるんでしまう。これ以上ここにいては、いけない。
距離を取ろうと後退るが一歩遅く、彼の手によって阻まれた。掴まれた手首を見下ろし、次いで彼の顔を見上げる。先ほどとは違い、傷ついたような、泣きそうな顔をしていた。
「下心がある、て言うてもですか」
彼の口から予想外の言葉が発せられ、しばし呆けてしまった。言葉はわかる。だが頭が意味を理解しようとしない。
「弱ってる人間につけこんでおれのこと意識してもらおうって下心。あわよくば貴女を手に入れようとする、醜い下心ですよ」
自嘲気味に笑う彼の眦は歪だった。
脳が、これでもかと警鐘を鳴らす。彼を動かしているものが何なのか、私にはわからない。
「ね、放して」
なるべく穏やかな声で言うが、彼は左右に首を振った。いやいやと駄々をこねる子どものような仕草に、見た目は大きくてもまだ年若い男の子なのだと思う。何度か抜け出そうと手を引いたり声をかけたりしたが全て徒労に終わった。
「やっぱりおれは、頼りないですか」
「なにを、」
「イコさんに敵わんのはわかってんねん。おれは、貴女の横には立てませんか、その涙を見せてはもらえんのですか」
「違う、生駒は関係ないよ」
「じゃあなんで?何があかんの?」
「私が、私の問題。だめなの、見られたらだめなの」
「なにが見られたらだめ?」
誘導されているとわかっているのに。言ってしまえば、もう後には戻れないのに。なけなしの何かはもう形を保つことができていない。優しく鼓膜を揺らす彼の声には抗えなかった。
「……弱ってるところ。そんなところ見られたら自分が許せない、見せてしまった自分が許せない。だから今、私は自分が許せない」
ああ、言ってしまった。思いっきり唇を噛む。じわじわと鉄の味が広がった。
許せない。許したい。そんな自分が許せない。
ふいに手首の拘束がなくなり。次の瞬間、口の中に指が突っ込まれた。突然の柔らかな感触に慌てて力を抜く。
「血、出てる。これ以上はおれの指噛みちぎってからにしぃや」
彼の親指が、そんな事できないだろうと煽るように歯を撫でていく。
「貴女が許せないなら、おれが許す。ぜぇんぶ許す。やからおれに、おれだけに見せて」
何があっても背筋を伸ばし前を向く私に憧れたのだと彼は言う。憧れ、思いを寄せ、そしていつしか己の手の中におさめたいと思うようになったのだと。好機だと思った。私の心が弱っているところにつけこむことのできるまたとない好機だと。
懺悔のように告げられる彼の告白。このぐらいの年の頃は、気持ちの膨らみがはやければしぼむのもはやい。そのとき出会ったのが私でなければ、きっと彼は別の誰かに思いを寄せていたに違いない。そして告げられた告白も、数ヶ月後には露と消えているかもしれない。
でも今は。自分で自分を許せない私を許すと、そう言ってくれる彼に、隠岐くんに、心全てを掬われた気がした。所詮私も、その程度の人間なのだ。自分以外の誰かに許されることで、肯定されたいだけのずるい人間。
「力抜いて、吐き出して、全部」
顎を持ち上げられて、目が合う。たたえる激情の一部が滲み出る、けれど涼やかな目元に、私は呆気なく落ちていく。
「どんな貴女もかわいそうで、かわええわ」
それがどういう意味なのか、私にはわからない。
2021.06