どこに触れていいのかわからず控えめに肩を揺する。次は移動教室なのに起きる気配が微塵もない。ちょっと強めに揺すろうとしたけれど、重くてできなかった。
「流川くん起きてー」
広い背中を軽く叩く。
「次移動だよー」
小さく身動ぎをしたからあわてて距離をとる。以前、先生が授業中に流川くんを起こしたら「何人たりともオレの眠りを妨げるヤツは許さん」とかなんとか言って暴れたことを思い出した。もしいま暴れられたら誰にも止められない。教室に閉じ込めるしかできない。
危険生物との距離をはかっているかのような動きをする私を見ながら、友人はため息をついた。
「もー置いてったら? そのうち起きるでしょ」
「罪悪感が」
「いつものことじゃん」
「たしかに……メモだけ残しとく」
お好きにどーぞ、と廊下で待ってくれる友人は優しい。
メモを流川くんの肘の下あたりに差し込んでおく。ちゃんと起こしてあげられなくてごめんなさい。私たちは先に行ってます――。
結局、流川くんは教室を覗いたらしい別の先生に引っ張られてきた。ふらふらしながら席についたはいいものの、数分ともたずにまたぐっすり寝た。
授業が終わり、みんなが教室に戻っていくなか――友人も行ってしまった――、流川くんは眠っていた。広い背中が呼吸にあわせてゆっくりと動く。大きな窓から射し込む太陽の光が彼のつややかな黒髪を照らしだす。
不思議な空間だった。クラスメートはちらと彼を視界に入れることはあっても、ある一定の範囲より先には近づかない。まるで不可侵の領域があるかのように。
一歩、近づく。呼吸がはっきりと聞こえる。さらに一歩。誰も入れない領域を、踏み込んでいく。
「起きて」
今度は背中から揺すっていく。何度か繰り返すと、規則正しい呼吸が乱れた。そしてのそりと上体を起こした流川くんは、寝ぼけ目のままあたりを見回し――視線が、ぶつかった。
一歩、後ずさる。強い意志をたたえたその眼光に射抜かれ、声を発することもできなかった。口の中が渇いていく。手のひらが汗ばんでいく。
目がそらせない。ちょっと、こわい。心の中は「もう許してほしい」と叫んでいた。なにも悪いことはしていないのにそう思った。流川くんの輪郭がぼやけていく。たぶん私はいま、泣きそうになっている。
「……えっと……」
授業終わったから起こした、と言えばいいだけなのに。渇いて掠れた声は言葉にならなかった。
「手、」
誰かの――流川くんの声。
「お前の手、やわらけー」
そう言って彼の手のひらが差し出された。「ん」と何かを催促している。何を?
痺れを切らしたらしい流川くんが棒立ち状態の私の手を掴み、ぐいと引っ張った。よろけて数歩、彼に近づく。
汗ばんでるし今日にかぎってハンドクリームを塗り忘れてるし、けっして綺麗な手ではないのに。流川くんはふにふにと感触を確かめるようにいじっている。
触れている彼の手はかたくて、でもしっとりしてて、包まれたらすっぽり隠れてしまうほど大きくて。あたりまえだけど自分のものとは全然違った。
ふにふに。ふにふに。
「あの、」
掠れた声で話しかける。
「もう、そろそろ、」
離してもらえないかな、と言おうとして、息を呑む。流川くんの唇が指先に触れて――かぷ、と食まれた。時間が止まる。思考が止まる。呼吸が止まる。
数度歯を立てられ、彼の口から離されたときには軽く歯形がついていた。それをじっと見ていた彼はぽそりと呟く。
「噛み千切れそう」
「いやいやいやいや」
物騒な言葉が聞こえて思わず手を引っ込めようとしたけれど、流川くんに力で敵うはずもなく。
「起こしてごめんなさい、もうしないから許して」
泣きそう、というか泣いた。こわくて。恥ずかしくて。どうしたらいいのかわからなくて。
「――かわいー……」
流川くんの声がやけに大きく聞こえた。
2023.09
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