おそろいのマグカップは雑貨屋で一緒に買った。色違いのお箸はストックで買っていたものをおろした。洗面所にはメンズのスタイリング剤やスキンケア用品が並んでいる。
日常に彼ーー流川楓が侵食して数ヶ月。半同棲状態になったのは、うちに連れ込んだのがきっかけだった。
あの日は何度目かの高校の同窓会があった。だんだん減っていく参加者に流川の姿はない。いたことがなかった。それもそうだ、もともと彼は人付き合いがいいほうじゃなかったし、何より世界で活躍するプレーヤーがこんなところにいるわけがない。
二次会までは参加したけど、三次会は遠慮した。またねーとわかれて、最寄り駅を降りたところで、寂しくなってきた。――いつもそうだ。みんなとわかれたあとひとりで歩いていると、どうしようもなく自分がひとりぼっちな気持ちになってしまう。すれ違うひとはいる。同じ方向に向かうひともいる。車も自転車も通り過ぎていく。けれどその誰もが交わらない。関わらない。ただそこにあるだけ。こんな夜は誰か隣にいてほしくなる。
ふと視線を上げると、道路の脇に背の高いひとがぽつんと立っていた。街灯から離れていて顔はよく見えない。全身ほぼ黒だが、姿勢が良いのはわかる。誰かを待ってる様子もなく、あてがないような雰囲気にこわごわ近づくと、今日もいないと思っていた流川楓そのひとだった。テレビや雑誌で見たまま。こんなに普通にそのへんにいると思わなくてしばらく声が出なかった。
あやしいものではないことを伝えるべく、同じ高校だったこととか、今日同窓会があったこととかをしどろもどろになりながら言った。返事はなかった。たぶん私のことは覚えてない。別に覚えていてほしいとも思っていなかった。
近くで見上げた彼は、冴えた様子がなく、どこかぼんやりしていて。
「もしかして体調悪い?」
「んなわけねー」
「……酔ってる?」
「飲まされた」
「弱かったんだ」
「ちげー、場に酔った」
聞き出した情報を繋げていくと、どうやら飲み会があったらしく、流川も飲んだとのこと。アルコールに弱くはない――食い気味に訂正が入った――が、場の雰囲気に酔ってしまったらしい。ふらふらぽやぽや状態でこのへんに辿り着いたのだとか。最後まで送ってあげなよって思ったのは内緒。でもそうしてたら出会えなかったからちょっとだけありがとう。
家こっちなんだよねと歩き出すと、流川がついてきた。足取りはしっかりしている。彼の住んでるマンションも同じ方向にあるらしく「偶然だね〜」なんて言ってたらあっという間にうちのマンションの前に着いてしまった。
会話はほとんどなかったのに一緒にいるだけで満たされてしまった。静かな夜に冴える月のようだった。
寂しい気持ちが戻ってくる。ひとりぼっちを感じたくなかった。誰かに――流川に。隣にいてほしくて。「コーヒーとか、飲む?」なんて、わざとらしく流川の手を引いたのだ。
次の日、「どこだここ」と記憶が曖昧らしい彼にありあわせで作った朝ごはんを食べさせた。朝は野菜ジュース一本というずぼら生活を直すべく最近食材を買い込んだところだったから、冷蔵庫の中身が充実していて助かった。数日前の自分、いい仕事をした。
これきりの縁かもしれないと思い、ひとさじほどの祈りを込めて「いつでも来ていいからね」と言って送り出したら、本当に来るようになった。宅急便しか来たことのないインターホンに出たら流川の姿があったときの衝撃は忘れられない。「いつでも来ていいって言った」とは彼の言だが、まさか本気にしてもらえると思わなかった。だってあの流川だ。私はきっと、運がよかった。
ある日、深夜に流川がなだれ込むようにうちに来たことがあった。
玄関先で崩れ落ちる彼を支えきれず一緒に倒れ込み、押し倒されるような体勢に目を白黒させていたら唇が押し当てられた。首に、顎に、頬に。そして唇に。アルコールのにおいはしなかった。たぶん彼は熱を出していたんだと思う。食われるように繋がった舌、押し返そうとしてびくともしない肩、肌にかかる吐息が、熱くて心地よくて、脳の奥がくらくらして、なにもわからなくなって。気がついたら一線を越えていた。
翌朝、流川は正座をしたかと思えば「責任取る」などと言った。自分がなんて返事をしたのか覚えていないけれど、はいともいいえとも言った記憶はない。そのあとも彼は変わらず来たし、泊まっていった。好きとも嫌いとも、それに近しい言葉のひとつもないまま、宙ぶらりんな関係だけが続いた。
ここから出て、ここに帰ってきて、ご飯を食べて、狭い布団に並んで寝て、お互いの体温を感じながら眠りに落ちて、思い出したように体を重ねて。そうして積み重ねていく日常は何ものにも代え難かった。流川の私物が増えていく部屋に愛おしさが募る。初めて会ったときからずっとバスケ一筋で、それしか眼中になかったはずなのに、なんの因果か彼の日常に滑り込んだ事実を日々噛み締めた。私は運がいい。満たされていた。他は何もいらないとさえ思った。
何ヶ月と数えなくなったころ。
流川が指の付け根をしきりにふにふにと触るようになった。彼と比べると全身が柔らかいからか、よく私の体の一部分を触りたがった。お尻とか二の腕とか頬とか。
最初はまた変なことしてると思っていたが、突然はたと思い至った。
「指輪でもつくるの?」
「! なぜそれを」
「えっ…………本気?」
まさかそんなわけと思いながらたずねたはずが、彼の目は本気であることを訴えていた。深淵のような瞳はじっとこちらを見据えている。
指輪って、あの指輪であってる? 本当に?
「なんで……」
「虫よけ」
だから着けたら外すなよ、と。
「……だって、それは、ようするに……」
ーー結婚を約束します、てことじゃないの?
その選択肢が脳裏を過ぎらなかったといえば、それは嘘になる。私は流川と一緒にいると気楽だし、穏やかでいられるし、満たされた気持ちになるし、ずっとこのままがいいなんて思っていた。他には何もいらないとさえ思っていた。けれど前に進む勇気がなければ、身を引く覚悟もない。踏み込むことをせず、名前のない関係に名前をつけようとしなかった。いちばん中途半端でいちばん卑怯なことをしている自覚はあった。
流川が現状をどう思ってるかはわからない。言ってくれたことがないから。あの日の「責任取る」しかなく、肝心のどう責任を取るのかは言ってくれてない。都合の良い存在に思われてるかもしれないし、実のところ何も思ってないのかもしれない。ここまできて放り出すことはしないと思う、でもそれも傲慢な考えだ。
いずれにせよ、ずるいやつには違いない。きっと私も同罪だ。何度も機会はあったのに、気づかないふりをしていたから。見えないふりをしていたから。
「……私たち、一度しっかり話し合う必要があると思うんだよね」
流川は視線を泳がせた。言葉足らずな自覚はあるらしい。直球ストレートな発言の多い彼にしてはめずらしく言葉を選んでいるようだった。再び顔を上げ、小さく息を吸ったあと。
「布団フカフカだし」
指をひとつずつ立てていく。
日常的にひとが来るようになってシーツも布団もちゃんと畳んだりお手入れしたりするようになった。
「めしとか、うめーし」
そういえばいつも言ってくれていた。彼がうちに来るようになってから本格的に自炊をするようになり、料理の腕は磨かれていった自覚がある。
「落ち着くし」
ひたすらに己を研ぎ澄ます流川楓という生き物の、ひととき安らぐ場所になっていたのなら。これからもそうあっていいのなら。望んでもいいのなら。ともに歩むことを許されるのなら。
「あんたのそばは、あったけー」
すり、と薬指が撫でられる。ぞくりと背筋を走るものがあった。手入れのされた指先はしっとりしている。バスケットボールに触れるための手。
フローリングの上をあとずさる。ちょっと距離をとって冷静になろうとしたけれど、むだな抵抗だった。だって、指が絡まってしまった。握りこまれてしまった。黒曜の瞳に不安も動揺も、感情すべてが吸い込まれそうで。
「だから、オレとーー」
陽が射し込む眩しい朝のことだった。
2023.09
SD夢ワンドロワンライ企画様未提出「プロポーズ」