あたたかい日差しが降りそそぐ。日なたでぼんやりしていると、錆びついた蝶番の音がした。次いでやや乱暴な足音。ぬっと大きな影が落ちてきて、視線を上げた先には友人を通じて知り合った後輩が立っていた。
「っす」
ぺこりと小さく頭を下げる彼――流川楓は、少し間をあけて隣に座る。周囲にチラと視線を向けたあと、「一緒じゃないんすか」とたずねてきた。
「彩子のこと?」
こくんと頷く黒い頭。艶のある髪が動きに合わせて揺れる。
「今日は忙しいんだって」
「ふうん」
流川くんはそれ以上言葉を重ねることはなく、おもむろに寝転がった。
屋上フェンスの向こう側からは、休み時間を満喫している生徒たちの声が聞こえてくる。
予鈴が鳴るまであと何分あるだろうか。
雲一つない青空。太陽を全身に浴びる姿がやけに眩しくて目を細めた。胸の内側でうまれそうな感情の名前はまだ知らない。一陣の風が私たちの間を駆け抜ける。
「……おやすみ」
返ってきたのは穏やかな寝息だけ。
◇
友人の彩子がバスケ部のマネージャーをしているからか、彼女と行動を共にしていると、部員とは少なくない頻度で顔を合わせる機会があり、廊下で会ったらとりあえず頭を下げる程度の顔見知りとなった。流川楓もそのひとりで、最初は彩子の隣にいないとガン無視というより気づきすらしなかったのが、数ヶ月経つとさすがに覚えてくれたのか、私ひとりでもぺこっと頭を下げてくれるようになった。
自分を認識してくれる誰かがいる。それが存外嬉しいもので、調子に乗った私はことあるごとに手持ちのお菓子を分けたり、飲み物をおごったりしてかわいがってしまった。彼が何を好きなのか知らないままに。けれど彼はいらないときは「いらねー」ときっぱり断るのでわかりやすかった。
そうしているといつの間にかぽつりぽつりと話をするようになった。たいてい「ふうん」「そすか」「っす」で終わるようなものだけど、なんだか人に馴れない生き物が懐いてくれたような感じがした。
ある日、彩子が一緒にお昼を食べられなくて、他の子もそれぞれ用事があって、ひとりになったことがあった。
友人がいないわけではないけれど、今日だけ一緒に食べて! というのはちょっとだけ気が引けた。教室でいつも通り机をくっつけていくなか、ひとりぽつんと食べるのもなんだかなと思い、屋上に向かったところ、先客もとい流川くんがすやすやと眠っていた。
天使の輪が浮かびあがるほどつややかな黒髪と、くすみのない綺麗な顔立ち、長いまつげ。かわいいなあという気持ちとともに、むくむくとわき上がってくるなんだかわからないものがあった。それを自覚し思考にいたるよりもはやく、本能のままに彼へ手を伸ばし、指先が触れる直前――はっと我に返った。あわてて手を引っ込め、距離を取る。
私、いま、何をしようとしていたんだろう。
手のひらをぎゅうと握り込む。食い込んだ爪の痛みが頭を冷やせと叫んでいた。
ちょっと離れたところでお弁当を広げて食べすすめる。心臓がまだどくどくしていた。冷や汗も止まらない。してはいけないことをしようとしたかもしれない自分が、一瞬とはいえ自分を制御できていなかったことが、こわい。
お弁当の味は全くしなかった。むりやり胃に流し込み、流川くんをそっと見やる。起きた様子はなくほっとした。ほっとしたら、なんだか体が重く、眠くなってきた。時間を確認して、ちょっとだけなら寝れるかもと思って、そして――。
はっと目が覚めて、視界に飛び込んできたのは傷一つない綺麗な顔だった。
「あ、起きた」
そうして何事もなかったかのように離れていく流川くんを目で追う。近すぎた距離と寝顔を見られた羞恥で内臓がひっくり返ったような感覚に陥る。先ほどの恐怖も思い出し、胃が焼けつくようだった。せり上がってきそうな何かを必死に押しとどめる。
やっとの思いで起こした体はしかし、離れたはずの距離が再び近づいたことにより声なき悲鳴を上げる。意志をたたえた瞳に射抜かれ、顔だけでなく全身から火が吹き出しそうだった。目をそらすことも言葉を発することもできず、固まったまま動けない。
「いーんすか」
授業、と言われて止まっていた時間が動き出す。あわてて時計を確認すると、もうすぐ五時間目が終わろうとしていた。
「うそ! さ、さぼっちゃった……」
どうしよう……とおろおろしていると、自分のものではない重み――大きな手のひらが頭の上に乗せられた。落ち着かせるようにぽんぽんと触れる。
おそるおそる見上げた先、流川くんはいつも通りの表情だった。何が起きているのか理解できないまま、渦巻いていたすべての感情を置き去りに、ぽかんと間抜けな顔を晒してしまう。そして、ひとつの仮説に行き着いた。
「もしかして、慰めてくれてる……?」
「っす」
流川くんが私を慰めてくれている。その事実を受け入れるのに時間がかかった。その間も彼は頭を撫で続けていた。
冷静になって考えると、私だけでなく、この場にいる彼も授業に出ていないことになる。私が起きるのを待ってくれていた――いや、それはさすがに自惚れが過ぎる。起きたときには昼休みが終わっていることに気づいたが起き上がる気になれずそのまま二度寝、その後他者――私の存在を認識し覗き込んで観察、今に至る。そんなところだろう。
「……きみも、さぼってることになるけど。いいの?」
「まあ。そすね」
でも、と彼は続ける。頭を撫でていた手のひらは、いつの間にか首の後ろに回っている。髪を巻き込みながら彼の五指が食い込む。絶対的な生き物としての力の差、のようなものを感じた。触れているところが、甘くしびれていく。
「共犯じゃねーかなって思ってます」
そのあとどうやって教室に戻ったのか覚えていないし、そのときの流川くんの表情も思い出せない。
この日から流川くんと私は共犯者となった。
示し合わせない。連絡を取り合わない。けれど時折、同じ時間を過ごす。少しだけ触れ合って、寄り添う。三十六度。誰かが隣にいることの心地よさを享受する。
◇
「センパイ」
寝息を立てていたはずの流川くんに呼ばれて視線を向ける。深淵のような瞳がこちらを見上げていた。何を言われずとも間を詰め、そして寄り添う。服越し、体の一部分だけが触れ合っている。溶け合わない。一つにならない。ただ寄り添っている。
彩子も知らない二人だけの時間はどうしようもなく愛おしく、同時にひどくおそろしい。
私にしか聞こえない終焉の足音が日ごとに大きくなっていることを、彼は知り得ない。だからきっと、明日も明後日も一週間後も一か月後も、もしかしたら一年後だって。何も聞こえないふりをして流川くんに寄り添うのだ。そうしなければ生きていけない生き物であるかのように。このまほろばが永遠のものでありますようにと祈りながら。
2023.09
TIP OFF!無配