少し遅くなってしまった。
夕暮れ時で街の慌ただしさを感じながら帰路に就く。するとどこからかぬっと人影が現れた。びっくりして立ち止まると、その人影は視線を彷徨わせる。においを嗅いでいるようだった。やがてこちらを見据え、小さな声で呟いた。
「いいニオイがする」
言い終わるや否や、空腹を主張するかのように腹の虫が鳴く。目の前の人物は、凛々しい眉をへにょらせて、見えない耳と尻尾が項垂れているように見えた。
たしかに私は食べ物――お菓子だが――を持っている。
週一回程度で何かしらを作る部活動に所属しており、今日がその活動日だった。そして活動時間が押してしまい、今に至る。今回作ったものはカップケーキやマフィンだ。出来たては甘い匂いがしていたし、その匂いが持ち物にも移ったのかもしれない。
普段は絶対そんなことしないのに、疲れていたのか、悲しそうな顔をしている彼につい声をかけてしまった。
「お腹、空いてるんですか?」
「……そう! ちょっと運動してたんす!」
「学校で作ったものですが、よかったら」
カバンからラッピングされた袋を取り出すと、彼は嬉しそうに受け取った。あまりの警戒心の無さにこちらが不安になる。知らない人間が知らない場所で作ったものを受け取るなんて、と。
「いま食べていいっすか?」
「え、あ……どうぞ」
バリバリと開封されるラッピング。片手にすっぽりおさまるくらいに小さく見えるマフィン。いただきまーす! と、豪快にかぶりついたところで「おい!」と別の声が飛んできた。
「お前、突然走り出したと思ったら……!」
「はほはん! ほれうまいっふ!」
「食べながら話すな!」
「――ごくん! 佐狐さん! これうまいっす!」
返事の代わりにこちらに視線を向ける彼のことを、私は知っている。こんなところで会うと思っていなくて、少しだけ背筋が伸びる。
「……佐狐くん」
クラスメートの佐狐浩太。目を引くような金髪から黒髪になっていたことは記憶に新しい。学校が馴染まないのか、あんまり人と話しているところを見ない。だからこんなに語気の強い佐狐くんは初めてだった。大きな声を出すところも。
「なんで、ここに」
「部活帰りで」
「何部?」
「ホームメイキング部」
大きなため息をついたかと思えば「だからか……」と頭を抱えている。妙な空気が漂っていることに気づいたのか「? 二人とも知り合いっすか?」と問われた。クラスメートだと返すと、彼は眩しいくらいの笑みを浮かべた。
「なあんだ! じゃあ佐狐さんもどうぞ! あ、オレ犬上って言います!」
「なあんだ、じゃない! 勝手に自己紹介するな!」
「えー佐狐さんの許可いるんすかー?」
つんと尖らせた唇が彼――犬上さんの愛嬌を表している。二人のやりとりを見ていると、自然と頬が緩んでいく。
「仲、良いんですね」
「もちろんっす! オレ、佐狐さんの弟子なんで!」
「弟子」
「ばか!」
「えー、ばかはひどくないすか?」
咳払いをしてから佐狐くんは「悪い」となにがしかの断りだか謝罪だかを入れた。何についてのことなのかわからず首を傾げていると、「こいつがその……強奪しただろ。悪かった」と付け加えた。
「強奪じゃないっすよ! くれたんです!」
「そう、だからこの人悪くないよ。全然」
「……そうか。なら、いい」
ところどころ汚れている犬上さんと、髪一つ乱れていない佐狐くん。犬上さんは弟子なのだと言っていた。どういう関係なんだろうと好奇心がくすぐられる。
犬上さんは律儀に「ごちそーさまでした!」と手を合わせた。「ゴミ持って帰るからここにどうぞ」と袋を広げ、食べ終わったマフィンの紙カップを入れてもらう。空気を抜き、口を縛ったところで、誰かの――佐狐くんの手が伸びてきて、流れるように回収された。
「これくらいの始末はする」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」
代わりと言ってはなんだが、と前置きを入れた佐狐くんは、少し口ごもる。やがて意を決したように言った。
「その、ひとつ。もらっていいか?」
「え、」
佐狐くんが指差すのはラッピングされたカップケーキ。犬上さんに渡したあとも、いくつか残っていた。
「佐狐さんも欲しかったんじゃないですかあ!」
「違う! いや、違わないが……」
「こんなのでよければ全然、普通のカップケーキだけど」
恐縮しながら渡すと、佐狐くんは「ありがとう」と口元を緩める。佐狐くんって笑うんだ、珍しいものを見た。
「佐狐さん佐狐さん!」
「……なんだ」
「送ってあげたらどうすか?」
「!?」
「オレが呼び止めたからオレが送るべきなんすけど、初対面じゃん? 佐狐さんの方が安心するかなって思って」
「あ、いや、大丈夫ですよ。近く……はないけど、そんな遠くないんで」
「だめっすよ! ね、佐狐さん!」
「……わかった。近くまで送っていく」
「え、あの、」
「じゃあまた! 佐狐さん、今日もありがとうございました! また明日、よろしくお願いします!」
瞬く間に走り去っていく背中を呆然と見送る。完全に見えなくなると、佐狐くんはため息をついて「悪い」と再び謝った。
「こっちこそ仕事増やしてごめん」
「何か増やされたとは思ってない」
「そっか。ありがとう」
「家、どっちだ?」
答えた方向に向かって二人で歩き出す。
知らない一面を知って不思議な気持ちになる。面倒見がいいんだな、だから犬上さんのような後輩に好かれるんだなと思った。
半歩後ろから佐狐くんを見上げる。街灯が彼のシンプルなピアスを照らしていた。アクセサリーとか着けるんだ、それも知らなかった。
近くのスーパーまで送ってもらってから解散した。なんともむずがゆい「また明日」だった。
翌日。
佐狐くんと顔を合わせたら何と言えばいいのか悩みながら登校したところ、昇降口で普通に鉢合わせた。挨拶して上履きに履き替える。気配を感じて顔を上げると、佐狐くんがこちらをじっと見ていた。
「……こっち、」
よ、呼び出し?! ついてこいというジェスチャーに従い、おそるおそる佐狐くんの後ろを歩く。知ってはいけないことを知ってしまったのかもしれないとか、昨日のことはなかったことにしてほしいのかもしれないとか、数十秒の間、心臓からは冷や汗が噴き出していた。
人気の少ない渡り廊下の端で、彼はこちらに向き直った。
「昨日の、うまかった。ありがとう」
「昨日の……? あ、カップケーキ」
予想していたのとは全然違った感じで拍子抜けする。こうして改めてお礼を言ってくれるなんて律儀なひとだなと思った。
「詫びになるかはわからないが、よかったらこれを」
そういって佐狐くんが取り出したのは、綺麗にラッピングされたスコーン。あのあと、わざわざ買いに行ってくれたのだろうか。どこのだろう、このへんでおいしいところってあったかな。
「ありがとう、ございます。謹んで――」
「また感想を聞かせてくれ」
「……感想?」
なんだろう、なんか違うような、噛み合っていないような。首を傾げる。そしてハッと思い至った。
「……ハンドメイド、ですか」
「? ああ」
そうだが? とでも言うように頷く佐狐くんを三度見くらいした。佐狐くんが? ハンドメイドを?
「時間と材料がなくて凝ったものはできなかったんだが」
そうは言うものの、このスコーン、三つ入っていてそれぞれ異なるアレンジがされている。明らかに作り慣れた人のものだ。なんてこった。受け取ったものに重みが増す。
「謹んで、いただきます」
「ああ。口に合えば嬉しい」
知らない一面どころか、佐狐くんってこんな人だったんだと認識を改めたところで、これってチャンスでもあるのでは、と思う。私自身、何かを作るのは好きだからホームメイキング部に所属しているし、家でもお菓子やご飯を作っている。これは佐狐くんとの共通の話題になり得るかもしれない。
「私も! 私も、また何か作ったらおすそ分けしていいかな?」
「構わないが……」
「犬上さんにも、よかったらまたあげてほしいです」
犬上さんの名前を出すと、一瞬険しい表情になったがすぐ元に戻り、「わかった」と頷いてくれた。
作ったものを交換するだけではなく、食べに行くようになるのは、もう少し先の話。
2026.04