影が落ち、頬に一瞬ひやりとしたものが触れる。ゆるりと視線を上げると、こちらを見下ろすように立っている男――蘇枋隼飛がいた。その手には水のペットボトルが握られている。 「これで良かったかな」 「うん。ありがとうございます」  両手で受け取ってキャップをひねる。乾いた喉に勢いよく流し込んだ。 「いい飲みっぷりだねー」 「生き返った……」  ペットボトルの中身を三分の一ほど飲んだところでキャップを閉める。蘇枋に向き直り、改めて感謝を告げた。そして――。 「お礼に、私にできることであればなんでもします。どうぞお気軽にご用命ください」  ◇  ため息を吐く。こんなはずじゃなかった。じゃあどういうつもりだったのかって話だけど、とにかくこんなはずじゃなかったのだけはたしかだ。 「お気軽にって、そりゃあ、言ったけどぉー」  所持金不足で飲み物を買えず自販機付近でうなだれていたところに、救世主――偶然通りがかったのが蘇枋だった――が現れ、文字通り命を救われた。何かしらでそのお礼をと思うのはおかしなことではないだろう。  これは決して手持ちの現金が少なすぎる自分が悪いわけではないし、普段自販機を使わなさすぎて知らぬ間に二〇円ぐらい値上がりしてたことを把握していなかった自分が悪いわけでもない。今日日電子マネーが使えない自販機が悪い。 「ああ、ほら。そこにあるよ」  指差された場所に転がるゴミをトングで掴み、袋に放り込む。――そう、私はいま、ゴミ拾いをしている。    蘇枋隼飛に「なんでもって言われてもね…………あ、そうだ」と連れてこられた先は、害獣にでも荒らされたのかというほどにゴミが散乱していた。そしていつの間にか蘇枋の手にあるお掃除セットを横目で確認し、いやな予感がした。 「ここをいまから掃除します。手伝ってくれるよね?」  有無を言わせぬ笑みを前に、小さく頷くことしかできなかった。    視線を巡らせながら歩く。  実は蘇枋に助けてもらうまでに、風鈴高校の制服を着た男子たちとどこかの集団がケンカしているのを目にしたし、風鈴高校の制服を着た男子複数が誰かの手伝いをしているのを目にした。そして蘇枋隼飛と名乗った男も、風鈴高校の制服を着ている。  気合いの入った壁の落書きに目を向けると、蘇枋は「この壁、数日前に○○さんの依頼で塗り直したばかりなのに」などとぼやく。庭から立派な枝が伸びている木を見上げると、「□□さんの手伝いで剪定したんだ」などと言う。  どうなっている? と言いたいのを雰囲気で察したのか、蘇枋は小さく笑ってから話しだした。 「オレたちは街の見回りや手伝いをしていてね」 「はい」 「街の人たちと関わることが少なくないんだ」 「へえ」 「いま手伝ってもらっているのもその一環でね」 「はい」 「今日は急ぎで別の依頼があって人手が持っていかれちゃってね、ちょうど良かったよ。まさに一日一善。困っている人は助けるべきだね!」 「さいですか」 「ところで――」  蘇芳色の隻眼がこちらを捉える。浮世離れした外見は、こういうときに真意を悟らせない役割があるのかもしれない。一挙手一投足を見逃すまいと、鋭い視線が向けられる。 「君はどうしてこの街に?」  この地域は風鈴高校――ボウフウリンのシマだ。基本的には理由がなければ、よそ者が足を踏み入れることはない。そして私はこの街の住人ではない。彼らにとっては部外者である。警戒されるのも道理だと思う。 「君が荒事慣れしていないのは動きでわかるよ」 「じゃあ、」 「それにしては無防備すぎる。例えば――誰かにボウフウリンの情報を持ってくるよう依頼された、とかね」 「……なんだ、バレてたんだ」  街の外の勢力図は日々変化している。消滅吸収されたチームがあれば、新たなチームもうまれている。そうしてシマと呼ばれるそれぞれの陣地を増やしていく。なかでもボウフウリンは激しさを極めていたが、ここ数年は落ち着いていて勢力を伸ばそうとする様子がない。ちょっとのぞいてきて~と、今回むりやり送り出されたのが私というわけだった。 「でもべつに懇意にしているとか報奨があるわけじゃない、ゆる~い依頼だったから」 「それで、見逃すと思う?」 「だめかー」  最初に出会ったのが風鈴生で運がいいと思っていたが、蘇枋だったのは運が悪かった。ここからどうしたら、穏便に解放してもらえるだろうか。私は交渉が得意ではなく、むしろ苦手なほうなんだが。 「いまの手伝いで助けてもらったぶんの恩は返してると思うんだけどな」  手に持つトングを鳴らしながら、振り返って進んできた道を示した。ゴミ袋はもうパンパンになっている。 「オレが君を見逃すだけの対価にはならないよ」  そうだ! と蘇枋は何かを閃いたようにポンと手を打った。本日二度目の勘だが、状況も相まっていやな予感が吹き荒れる。 「連絡先を教えてよ!」 「…………はい?」 「今後オレが連絡を入れたら飛んでくること」 「なんのために……?」 「決まってるじゃないか! 君をこき使うためだよ! なんでもする――だよね?」 「それあの、別の言葉で下僕とか言われる……」 「そうとも言うね」 「あるいは手駒、とか……」 「そうとも言うね」  ほらスマホ出して、とスマホを奪い取られ、返ってきた画面を見てうなだれる。  こうして私の連絡先に燦然と輝く「ご主人様」の文字が増えたのだった。 2025.06