「さて、」  グラスの中の氷が軽やかな音を立てる。  目の前に座る男――太刀川慶は、もったいぶるようにゆっくりと足を組み替えた。唇はゆるやかな弧を描いている。真意の読めない深淵のような瞳がじっとこちらを見据え、自然と背筋が伸びる。酔いはどこかへ行ってしまった。緊張のあまり瞬きすらままならず、ごくりと唾を飲み込む。 「正義ってやつの話をしよう」    ◇    正義感が強いと言われたことがある。つまり、正しく義を通そうとする意志が強いということだ。けれどもそれは褒め言葉ではなかった。呆れたように「あなたは正義感が強いから」、だからそういうことが言えるのだろうというニュアンスだったと思う。  間違っていることは間違っていると言うし、規則やルールは基本的に遵守。でもそれは当たり前のことだ。私たちは社会的な共同体を形成して生きているのだから。どんな理由があっても人を殺してはいけないという共通認識が現代社会において普遍的なものであるように。  もちろん自分がいつでも正しいとは思っていない。知らないこともたくさんある。間違うことだってたくさんある。けれど、いつだって正しくあろうとしている。    一人で飲んでいたら太刀川慶に声をかけられた。  大学が同じ、学部が同じ、互いにボーダー所属、住んでいる地域まで近ければそういうこともあるだろう。偶然鉢合わせたのは今回が初めてではない。前回同様、同席を促すと彼は「じゃ、遠慮なく」と椅子を引いた。  ボーダーで何度か個人ランク戦をしたことはあるが、とくべつ仲がいいわけではなく、会えば話すくらいのもの。その証拠に彼の連絡先を知らないし、聞く必要性もいまのところは感じていない。二人で飲むときはだいたい太刀川がメインで喋る。喋ってくれる。私は少し相槌を打つ。その程度だ。  私が彼について知っていることといえば、ボーダーでの功績や経歴と、それに見合わぬトンデモエピソードの数々だった。  今日はすでにほどよく酔いがまわっていたので、口がちょっとだけ軽くなってしまったらしい。いつもなら彼に話さないようなことを話した。私のこと。正しくありたいこと。最近、疑問に思っていること。 「正義感とか正義とかさ。いったい何なんだろうねえ」  はじめは聞こえていた相槌がだんだん減っていき、あれ? と太刀川に目を向ける。彼は頬杖をつきながらどこかに思いを馳せているようだった。 「聞いてる?」 「んー? 聞いてる聞いてる」  聞いてるのか聞いてないのかわからない適当な相槌を返事と仮定し、言葉を連ねていく。話が飛んでったような気もするし、同じことを何度も話したような気もする。今日の太刀川はずいぶん静かだなあと思ったそのとき。 「正義ってのは、そんなにエライのかねえ」  さっぱりわかんねぇや、と彼は頭を掻いた。 「俺たちはヒーローか?」  問われるが咄嗟に言葉が出ない。  私たちがボーダーで行っていること。ボーダーの名のもとに行っていること。一般市民に見せることのできる私たちの姿。  ふわふわとした気分が落ち着いてきて、思考がだんだんとクリアになっていく。  彼は答えを促さない。    私たちはこれから正義の話をする。    ◇    正義って便利な言葉だよな、と太刀川は言う。 「正しいことをしてるって思い込むことができる」  それはまるで正しくないことをしているような言い方だ。  正義の名のもとに行われた非人道的行為の残虐性は歴史が語っている。現代においても、正義を免罪符に攻撃を正当化しようとする場面を目にすることがある。例えば、テレビの記者会見なんかで。 「俺たちが持ってるのは武器だ。重さがある。斬ることも刺すことも射抜くこともできる。これで、人を殺すことだって可能なんだぜ」  太刀川の手刀が伸びてきて首筋に触れた。指先が少し食い込む。息をするだけでその存在を強く感じさせられる。伝達系、頸動脈。トリオン体でも生身でも急所となる部位だ。 「武器を持つ俺たちには力がある。力は正しく使わなければならない」  彼の手がすっと離れる。  太刀川慶のそういうところが苦手だ、本当に。  捉えどころがない言動をするくせに芯は絶対にぶれない。己の立場も現状も周囲からどう見られているのかも、あるいはどう見られるべきなのかも、すべて理解しているのだ。慧眼をもつ者。私は至ることのできない境地。なんでもない顔をして核心に触れていく。見ないようにしていたものに目を向けさせられる。考えないようにしていたものを剥き出しにしていく。 「弱肉強食ってあるだろ。強いものが生き残り、弱いものは食われるやつ」  弱いものが食われることは正義か? ――否。これは摂理だ。いきとしいけるもの全てにおいて変わらぬ世の理。しかし社会的共同体を形成し、法を敷き、感情をもつ人間である私たちが他の動物と違うところ。理を覆し、弱いものが生き残るには。 「ノブレスオブリージュ。持てる者の義務ってやつだ」  俺たちの正義ってやつは結局はココなんだよな、と太刀川はため息を吐く。 「俺もおまえも持っている。なら、与えないとな」  力を持つ私たちは、一般市民を守るあるいは助けることで、存在を肯定されなければならない。そうしなければ、ボーダーの存在が揺らぐことになる。  ああ、そうか、と思う。個人の小さなものさしではなく組織のことまで考えてるんだ、このひとは。見ているものが違うというのはこのことか。  感心する私をよそに「と、いうのは建前で」と彼は言う。深淵のような瞳が弧を描く。 「そんなもんは二の次だ。俺は強いやつと戦いたい。戦って勝ちたい」  正義が俺についてくるんだよ、と太刀川慶は宣った。  ――ばちん。目の前で何かが弾けたような気がして目を擦る。おかしい、太刀川がめちゃくちゃかっこよく見える。反応がなくて首を傾げるその仕草ですら、なんだかいつもとは違って見えた。 「……太刀川って、かっこよかったんだね」 「ハア? 俺はいつでもかっこいいだろ。何言ってんだ?」  それより次、いつ個人ランク戦やる? と少年のような表情で見てくる男に、うまく返事ができただろうか。  私は今日、今、この瞬間。  太刀川慶という男を知ったのかもしれない。    正義は流動的なものだ。文化が違えば、時代が違えば、立場が違えば。正義なんてものは変わっていく。それを定義するのはいつだって同じ人間で。これだけは未来永劫変わらない。  私のなかの正義。正義というには俗物的なそれは、いつの間にか自己を形成するものとして、奥深くまで食い込んでいた。そのことをまざまざと思い知らされた。  このひとが、太刀川慶がボーダーの個人総合ランク一位に君臨し続けているのは、単純な力比べによるものだけではないのだろう。いっそ非情なほどに人間というものを見つめ、愁い、そうして愛しているのかもしれない。  私のようなものにさえ、彼は平等に愛を与える。それはとても幸福なことである一方で、残酷だとも思う。だってそれは彼の唯一になれないということだから。私は奪われたというのに、それを知らない太刀川慶は今日も明日も明後日も、愛を与え続ける。私にも、私以外の人にも。 2022.10