ピークタイム後の気のゆるんだ食堂が過ごしやすくて、わざとその時間帯に行くことがある。  のんびりメニューを選んで遅めの昼ご飯を食べていると、向かいに座る太刀川慶が変なことを言い出した。 「なあ、大人が焼くモチってなんだと思う?」  咀嚼、嚥下。その間たっぷり十秒。  ちなみに今日は彼と会う約束などはしていない。ふらりと現れたかと思えば「誰か来る? 来ねーなら座っていい?」と、たずねておきながら返事を聞く前に椅子を引いたのだ。もちろん誰かと約束していたら断るが、ひとりだったから受け入れた。 「…………なんて?」 「大人が焼くモチって何?」  突然どうした。脈絡がなさすぎる。先ほどまで別の話をしていたのではなかったか。  視線を上げた先で、彼はうっすらと笑みを浮かべている。けれど何も読み取れない。発言の意図も、瞳の奥で燻ぶっているらしい感情の一端ですらも。    彼の発言に振り回されるのは、なにも今に始まったことではない。出会ったときからそういうひとだった。初対面だというのに「どこかで会ったことあるよな?」と言われたことはしばらく忘れられないだろう。それにしてもひどい話だと思う。発言した本人は深い意味なんてなかっただろうし、会ったことのあるなしさえわかればスッキリするかもしれないが、発言された方――つまり私のこと――は、その後警戒しながらとはいえ、いやでも意識してしまうこととなった。  それからはもっとひどかった。意識を向けていると見えるものが増えていき、さらに色がついていき、徐々に太刀川慶という人間に気を許していったのだ。彼が警戒心を刺激しないように振る舞っていただけではこうはならないだろう。見たいものしか見ていないと言われればそれまでだろうけれど、そんなの自分では気づけやしないのだ。  人間の脳はバグだらけを実感しつつ、感情はその脳に支配されているのだから救いようがない。だからといって、なりふり構わず駆け抜けられるほど無邪気な子どもではなく、一歩引いて俯瞰できるほど大人でもない。私は中途半端なまま生きている。  そしてつい先日、彼はそれまでの話の流れをどこかに放り投げて「じゃあ付き合うか」なんて言い出した。そこでイエスと答えたから、この日の続きがあるわけだけれど。彼に異性の幼馴染みがいることも、隊に異性の後輩がいることも知っている。顔も広くて、関わる人間の絶対数も私とは違う。本当にただの友人のひとりだと思う。何がどう彼の「じゃあ以下略」に引っかかったのかはわからない。――それとも。世の中というのは案外、こういう風に成り立っているのかもしれない。時代や立場によって変化していく正義のように、ひととひとの繋がりも流動的なものだ。出会うのが今でなければ一生出会わなかったかもしれない。なればこそ、関係性を変化させる理由なんてあとからついてくるもので、そのとき考えるものではないのだろう。    ――さて、大人が焼くモチとは何か。 「それは本当に大人だけ?」  太刀川慶を理解したい。  その一心で最後まで付き合おうと質問を重ねていく。この発言に何かしらの意図があるのなら、向き合いたい。何もなくても、ただの一興だとしても、それもまた彼の一面なのだから。 「うーむ。大人じゃないこともある」 「任意の関係性において、片方あるいは双方に発生するもの?」 「ニンイ……まあ、そうだな。そうなる」 「味はある?」 「ない」  そうして戯れにもならない問答の果てに、最初からわかっていた正解を言うと、彼は面白くなさそうに唇を尖らせた。 「ちぇー。わかってたのかよ」 「なーに、美味しそうとか思った? 京都にあるよ、生駒くんに頼む?」 「――それだよ、それ」  それと言われたものが何を指しているのかわからなくて首を傾げる。 「付き合ってるの、俺だろ?」 「そ……そうだね……?」  いまだに実感がわかず、また正面切って言われたことによる照れもあり、声が小さくなっていく。 「俺の前で俺以外の男の名前出すのはどうかと思う」 「いや……え?」 「おまえ、なにげに顔も交友関係も広いし」 「そんなことないと思うけど」 「いーや! そんなことあるね」  こんな回りくどいことをしたのってもしかして――。はたとすべての情報が繋がっていき、ひとつの結論を導き出す。これこそが本当の正解にほど近いものだろう。口元がにやけるのを抑えられていないかもしれない。 「それで妬いた、ってこと?」  今度は彼がたっぷり十秒を要した。視線をさ迷わせ、次いで下に落とし、首の裏を掻く。唇をへの字に曲げたかと思えば、決まりが悪そうに「……妬くだろ、フツー」と呟いた。  素直に認めるんだ、と、こんな表情するんだ、が心の中で混ざり合う。普段の生活はだらしないし、捉えどころのない言動をするのに、根っこの芯のところは全然ぶれなくて。ふとしたときに漏れ出す彼の哲学のような、生き方のようなものに抱いた感情の名前はひとつではない。そんな太刀川慶に惹かれている。  心臓が痛い。ときめきの過剰摂取。致死量超過。世界はこんなにも明るくてまばゆい。 「……かわいいとこあるね」  彼には彼の交友関係があって、私には私の交友関係がある。完全には交わらないそれは、だからといってどうこうするつもりもなければ、何かを思うこともなかった。けれどたしかに、彼のこんなところは自分の前だけであってほしいし、誰にも見せたくないと思った。思ってしまった。 「節穴?」 「目がないの」  伏せて置いていたスマホを手に取る。彼から「いまどこ?」とメッセージが入っていたことにいまさら気づいた。既読をつけ、スタンプを送る。時間を確認すると、そろそろ防衛任務に向かう時間を指していた。  彼がこういう話を持ちかけてくることは、正直なところ意外だった。飄々としていて何事にも大きく動じることはない。だから人に対する感情の揺れは最小限、ましてや私に対して妬くなんてことはないと思っていた。そんなそぶりはなかったから。 「意外か?」 「えっ」 「そういう顔してる。おまえわかりやすいからなー」  ええ? 本当に? と自分の頬をむにむにとつまむ。誰にも言われたことないんだけどなと思いながら、最後のひとくちを飲み込む。 「実はね。私も焼きまくりだよ、モチ」  突然始まった関係性であるからこそ、いつ終わるかわからないことが不安だった。どうすればいいのかなんていまだにわからない。ただ、そう、彼に振り回されるのはいやじゃない。彼女という立場になったといっても、目に見えて何かが大きく変化したわけではなかった。日々少しずつ自覚しているところだ。それは踏み込ませてもらえるプライベートな部分が少し増えたとか、何気なく触れたときに受け入れてもらえるとか、そういう日常の些細なところで。  食べ終わるのを待ってくれていた太刀川慶は「知ってる」と、いっとう柔らかい表情をした。    闇夜で染めあげたようなロングコートがはためく。二本の弧月を携え、私の遥か先を行く。振り返らない。それでいい。追いかけるから。ちょっとやそっとじゃ追いつけないのがあなただから。 「どうして強いの?」  出会って少し経った頃に聞いてみたことがある。彼はもらいものだというぼんち揚をばりぼり食べながら答えてくれた。 「強さは結果だ。俺は強いやつと戦って勝ちたいだけ」 「強いやつと戦ったら、私も強くなれる?」 「さあな。それは誰にもわからない。少なくとも、おまえ自身が望まなければ強くはなれないだろ」  口開けろ、と言われてぼんち揚が突っ込まれる。 「あとはあれだ。追いかけてくるやつがいたら、逃げ切るためには前に進むしかなくなるってのもある」  ボーダーは良くも悪くもそういう環境だからな、と。いまならわかる。彼が強いのではなく、彼らが強いのだ。  生き方も考え方も、何もかもが中途半端な私はひた走る。そうすることしかできないから。そうしていつか、大人になっていく。 2023.09