ボーダー内フロアの一角。誰かに名前を呼ばれて動きを止める。振り返った先には、癖のある髪を無造作に遊ばせ、胡散臭い笑みを浮かべた男――太刀川慶がいた。
こういう呼び止められ方をしたときはろくなことがない。嫌な予感がする。逃げ出すよりも速く近づいてきた太刀川は、やにわに拳を突き出した。つい最近、このポーズを見た記憶がある。そうだ、近所で見かけた小学生がこんな感じの仕草をしていた。
どういう反応が求められているのかわからず、とりあえず拳を合わせてみる。すると「おしい! 手、出してみ」と言われたので、今度は手のひらを広げてみた。「ほい」と乗せられたのは、一枚の五百円玉だった。
いや、なんで?
「小学生のお小遣い?」
「これで何か買ってきてくれ」
「詳しい説明求む」
「何でもいいから」
じゃ、またあとでな! と、軽やかに走り去っていく男の背を呆然と見送る。肝心な情報を何一つ得られなかった。小学生ですら「いつ・どこで・誰と・何をする」の報連相をするというのに、この大学生ときたら。
無茶ぶりのような頼まれごとは、まれによくある。その度に頭を悩ませ、元凶に悪態をつきながらも、なんだかんだで引き受けてしまっている。おそらく見当違いなことをしている場合もあるけれど、そのことについて苦言を呈されたことはない。
いい加減にしろと投げ出さないのは、惚れた弱みというやつなのだろうと思う。本人には絶対バレたくないし、こっぱずかしいから絶対誰にも言わないけれど。
太刀川慶という男のぶれない芯を持った強さに惹かれている。憧れもしている。つかめない言動の中にある核のようなものは、私にはないもので、私にはたどり着けそうにないものだ。だからこの人とかかわるときは少しだけ自分自身を肯定できる気がする。この人に見放されない自分であろうとするから。そうやって頑張る自分のことは嫌いではない。
誰にでもフラットだからこそ、こういう頼みごとをこなすことで、少しでも近づければいいという下心がないわけではない。それ以外の接点なんて、ボーダー所属の同学年ということしかないのだ。級が違えば隊も違い、得物も防衛任務のシフトも異なるのだから。
今回の「五百円で何か買う」は、過去いち情報がなさすぎてさすがに初手から詰んでいる。どうしよう。
スーパーに行って、売場を見て回る。お惣菜、お菓子、飲み物、スイーツ。とはいえ正直なところ、五百円で買えるものはたかが知れている。スイーツ三個が限界だ。
スイーツでも買って行ってやるかと考えながら冷凍食品の並びにあるアイスクリームのコーナーを見ていると、これでもかと詰め込まれた限定フレーバーが目に入る。そういえば最近食べていなかった。おいしそうだなぁと思うと、瞬く間に気持ちが傾いた。
やはりカップに入ったアイスクリームを涼しい部屋で食べることこそ至高。日差しが照りつける季節、持って帰るのが大変だけど、そこは一秒でも早く冷凍庫を目指すのみだ。フレーバーは選ぶまでもない。限定を二種類。私が買ってきたのだから、ひとくち食べさせてもらう権利くらいはあるはずだ。私のお金じゃないけれど。
会計が終わってからメッセージを確認すると、「俺んち集合(よくわからない絵文字)」が同学年グループに送られていた。そうだよねーと思いつつ、何度目かの少しだけ期待した自分に落ち込む。あいつが私だけを呼び出すことはないってわかっていたのに。
アイスは二つしかない。追加で買ってもいいけれど、誰よりも早く着いて太刀川と二人で証拠隠滅をはかるか。そうと決まればのんびり歩いていられない。ダッシュで太刀川の家に向かった。
着いたときには汗だくで、かなりひどい顔面になっていたと思う。外にいても汗はとまらない。
送ったメッセージの既読を確認するよりも先に、太刀川が飛び出してきた。
「おー、一番乗り!」
そのまま部屋に誘導される。涼しい室内は火照った体を冷やしてくれる。生き返るような心地だった。
「アイス買ってきた」
「やった」
「二個だけ」
「じゃあいま食べるか」
「え、みんな来るんでしょ? 鉢合わせたらさすがに気まずいんだけど」
「大丈夫だろ。あいつらそんなすぐ来ねーよ」
まるでそうだと確信しているような言い方だ。誰かから連絡でもあったのだろうか。
ローテーブルに向かい合うように座る。太刀川はアイスを袋から取り出しながら「俺どっち?」と聞いてきた。
「白いやつ。黒いのは私」
「ふーん。黒いのもひとくちくれよ」
「……ウン。私も白いのひとくち欲しい」
「何口でもいいぜ」
こっちの気も知らないくせに。
渡されたスプーンを手にカップを開け、遠慮なく三口くらい取る。そして一気に頬張った。外から冷やされた体が、内側からも急速に冷やされる。言葉にできない甘く色づく気持ちも一緒に飲み込む。
「いい食べっぷりだねぇ」
そういうとこ気に入ってるんだよなと、聞こえた気がして。黙ってアイスを食べる。お互いに。冷房の静かな駆動音と、遠くの方で蝉の鳴き声が響く。そっと顔を上げると、真意の読めない瞳がこちらに向いていて。暑さとは違う汗が吹き出しそうだった。
なんでそこで黙っちゃうの。いつもみたいに、とりとめのない話をしてよ、いま。
「……あのさ、」
食べ終わったカップの端をつつきながら、話しかける。
「今日すごい困ったから、次からはもっとわかりやすく言ってよ」
「あー……ゼンショする。でも、」
「でも?」
「俺で頭いっぱいになっただろ?」
「っ、はあ⁉」
「要は何でもよかったんだよ。おまえが俺のこと考えながら選んでくれるなら、何だっていい」
そんなことを言われて冷静になどなれるはずもなく、しかし口から出てきたのは「……ばかじゃないの」というかわいさの欠片もない言葉だけだった。
「そうかもなー」
いつの間にか横に移動していた太刀川の熱い手のひらにつかまって。それから、飲み込めない甘さが胸の中をうずまいていく。溶かされて、もう元には戻れない。
2025.08