――どこだ、ここ。  仰いだ空は半分、灰色の建物で遮られている。  この町に引っ越してきてまだ日が浅い。それなのに慣れない土地を地図を確認もせずに、きょろきょろしながらひとりで歩いたからか、気がつけば見覚えのない場所にいた。とはいえ、土地勘がなく大半は見覚えのない場所である。これはもう盛大に迷ってしまった。大通りから一本入ったところまでは覚えている。  迷いながらもさらに動いていると、いつの間にか飲み屋街のほうに出てしまっていたらしい。あたりまえながら住宅街とは全然雰囲気が違う。この町というか、この周辺には飲み屋が多いのは知っているけれど、騒がしく感じて積極的に近づくことはなかった。住宅街とは隣接もしていないから迷い込むことはまずないはずなのだが。幸いなのは真っ昼間で視界が悪くはないことと、開店前だからか飲み屋のキャッチがいないこと。 「夜にここふらふらしてたらいいカモだよね。昼で助かった」  キャッチがいないどころか人っ子一人いない。室外機の無機質な駆動音、のれんの下がっている静かな通りと仕込み中なのかどこからか漂ってくるいいにおい。この飲み屋街の呼吸のようなものを感じる。  柄にもなくどきどきしている。小学生の頃に探検と称して初めて通った細い道や垣根を思い出す。未知の場所への期待、高揚、不安、おそれ。どうしよう、全部混ざって、たまらなくわくわくしている。  どこに向かってるのかもわからないまま、角を何度か曲がった先にあったのは、廃れきった建物だった。一目でここはやばいと理解できる。外壁の塗装は剥げているし、そのうえから落書き――統一感のようなものを感じるので、誰かによる指示か意図のあるストリートアートだろう――がされている。建物の上のほうではその名前の一部、「オリ」の二文字だけがはっきりと認識できた。 「オリ……」  カラスがすぐそばを横切ったかと思えば、建物のあちこちにとまっていて、まるで品定めでもするかのようにこちらを見下ろしている。飲み屋街の奥にこんなところがあるなんて思いもしなかった。おそらく本来の役割はもうとっくに果たしていないのに、妙に気になる佇まいだった。  見えない引力に引き寄せられるように一歩ずつ足を進めていく。はやく立ち去ったほうがいい。頭ではわかっている。心臓だってばくばくだ。誰かと鉢合わせたらどうしようとかここにいるひとが普通なわけがないとか、わかっているのだ。でも。  開けっ放しの入口を越えていく。壁には外壁同様に落書きと、いくつものポスターが貼られているがすべて焼けている。それを保護するはずのガラスは割れていた。かつては映画館、町のシアターだったのだろう。廃墟というには荒れが少なく、けれど整えられているわけでも修理されているわけでもない。なのに――人の動きの痕跡がある。ひとつの扉の前への道が、できていた。  一歩ずつ、進んでいく。極力足音を立てないように気をつけながら。この先を想像しながら。  扉の前で立ち止まる。自分でもはやくここから出なければと思っているのに。奥からかすかに声が聞こえてきて、これまで感じられなかった人の気配に好奇心が勝ってしまった。  取っ手に手をかける。  力を入れようとした――その瞬間。 「だめだよぉ」  男の声。下駄の音とともに、後ろから伸びてきた片手が扉を押さえる。声音の柔らかさとはうらはらに、振り返らなくてもわかる背後からの圧。心臓の動きが変わった。口から飛び出してきそうなほどに暴れている。呼吸をするのが精一杯で声を出すこともままならず、取っ手を握っていた手は力なくずり落ちた。 「どこから迷いこんだのかなぁ」  扉から離された手は、そのままぽんと両肩に置かれる。大げさなくらいに跳ねたことに気づいていないはずがない。なのに、手のひらは肩から離れない。これは、決して「どこから」の答えを聞かれているわけではない。私に話しかけているわけでは、ない。 「おうちの場所、わかるぅ?」 「……いいえ」 「あらら、迷子?」 「……はい」 「そっかぁ」  肩を押す力に抗わずにいると、体を反転させられそのまま外に出た。オリと書かれた建物から離れていく。押されながら手の主にちらりと視線を向ける。くせのある黒髪と、丸い色付きのサングラスが見えた。猫背気味なのかやや姿勢が悪い。サングラスの奥の瞳がこちらを向き、唇が弧を描く。「なぁに、どおしたのぉ」と首を傾げた。 「ここは、何ですか」 「それ、知る必要あるぅ?」 「……いえ、口が滑りました。忘れてください」 「べつにいいよぉ。――ここは“オリ”。かつてオリオン座って映画館だったけどぉ、いまはオレたち“獅子頭連”の根城だよぉ」 「ししとうれん……」  ししとうれん――獅子頭連。 「そ、チームの名前。聞いたことあるぅ?」 「ない、です」  その答えがはたして正解なのかはわからないが、初めて聞くチーム名だった。同時にこの町にもそういうチームとか縄張りとか、それを構成するひとがいるんだということをいま知った。 「そっかぁ〜知らなくていいよぉ。だから君はぁ、今日見たことも聞いたことも、ぜぇんぶ忘れなねぇ」  その後ぽつりぽつりと話は続き、緊張もだいぶ解れたころ。あとひとつ角を曲がったら大通りだと教えてくれたあと、肩から両手が離れた。ばっと振り返ると、作務衣の上にスカジャンを羽織っている男がひらひらと手を振っていた。「もう迷子にならないようにねぇ」なんて言いながら。  あそこで出会ったのがこの人で良かったのだと思う。そうじゃなかったら、きっといまごろ大変なことになっていたかもしれない。チームの名前を「知らなくていい」なんて、優しい拒絶だ。彼と私の生きてる場所が違うことの証左であり、決して交わることはない。――それも、今日までの話。 「あの!」  はやく立ち去って大通りに出たほうがいいと理解はしている。けれど同時に、このままでは後悔するとも思ったのだ。 「名前……あなたの名前、教えてください!」  振っていた手が固まる。先ほどまでとは違い、サングラスの奥は光が反射してよく見えない。 「いや、いらないでしょ。はやく帰りな」 「でも、お礼とか、」 「いらない」 「私が! またあなたに会いたいんです!」  勢いで言ってしまった。でも本音だった。彼とまた会いたい。彼と話したい。彼のことを知りたい。これで拒否されたら諦めようと思っていると、「……十亀条」と小さな声が聞こえた。 「とがめ、さん」  忘れないよう何度も舌に乗せる。 「名前言ったよぉ、もう行きな」 「今日はありがとうございました! また、いつか!」  最後に自分の名前を叫んでから踵を返す。走りながら仰いだ空は快晴、雲一つなかった。  あそこにもう一度たどり着けなくても、この町にいる限り、生きている限り、きっとどこかで再会できる。そうしたら今度は大きな声で名前を呼ぶのだ、「とがめさん、また会いましたね!」と。 2024.06