十亀条と再会した。なんと――縁日の屋台で。
あれから一週間も経っていない。次に会えたら「とがめさん、また会いましたね!」を言う脳内シミュレーションを何度もしていたというのに、実際に目の前に彼がいるとなるとシミュレーション通りにはいかなかった。それはもう、壊れかけの機械の如し。
「ととととととがめさん……! まゃ、ま……!」
「あ。あのときの、」
たしかぁ、のあとに続いたのは間違いなく私の名前だった。喧騒の中でも耳はしっかりと拾った。聞き慣れた自分の名前なのに知らない音みたいで、新鮮で。覚えてくれていたことに舞い上がる。一方的に押し付けたに違いないのに、彼の見えない優しさに触れた気がした。
ふいに「だめだよぉ」が蘇る。柔らかな声音、心臓を握られたような感覚とともに。頬を引つらせる私を見ながら、とがめさんは首を傾げている。
「も、もしかして……ここもだめなとこ、だったりしますか?」
彼はきょとんとしたあと、「ああ、そっかぁ」と呟いた。あの日――私が好奇心からオリに迷い込みかけて、十亀条に引き留められた日。彼にだめだと制されたのだ。その彼がいるということは、オリ同様、ここも普通の人は近寄ってはいけなかったりするのだろうか。
「だめじゃないよぉ」
固くなった心臓に沁み渡るような声だった。すべてを溶かしていくような。
屋台のオレンジ色の照明が、彼の輪郭を照らし出す。日がほぼ暮れているからかサングラスはしていない。春のような目元が印象的だ。直接目を合わせる、ことのハードルの高さを実感する。落ち着かなくて視線をさまよわせていると、今日はスカジャンを羽織っていないことに気づく。それから、なんとなく先日より表情が柔らかい気がした。邂逅二度目の私がそう感じるのも変な話だけど。
「今日は迷子じゃないんだねぇ」
「はい、いえ」
「はは、どっち。誰かと来てるのぉ?」
「いえ、なんていうか、ソロです。近くに寄ったので、ついでに楽しい空気吸おうと思って」
「へぇ、楽しい空気吸えてるぅ?」
会話を続けようとしてくれてることに、じわじわと嬉しさがこみ上げてくる。それなのに私ときたら「まあ、はい。普通に」なんて、全然かわいくない返事しかできず、言った直後から脳内反省会が開催されている。「事実を言ったまで」「いやいや、こういうときは今楽しいになりました、あなたに会えたからの一言でも言うべき」「あまりにも直球すぎるのでは」「むりやり名前を聞き出したのに?」といった具合に。
「そっかぁ。あ、ちょっと待っててねぇ」
そう言ってどこかに消えたとがめさんは、しばらくして何かを抱えて戻ってきた。「これあげるぅ」と差し出されたのは、ベビーカステラの詰まった紙袋だった。何軒か隣で売っていたものだと思う。わざわざ買ってきてくれたのだろうか。なぜ?と首を傾げながら財布を取り出し、小銭をいくらか握りしめる。
「いくらでしたか?」
「いいよぉ、おごり」
「お?! さすがにそれは……!」
「じゃあうちの買ってってよぉ。それでチャラねぇ」
「もちろんです!!」
どれにしようかなと悩んでいると、突然顔の横が冷たくなった。びっくりして体が仰け反る。そのまま視線だけ動かし、よく冷えた飲み物を頬にあてられたのだと理解した。そしてその犯人――とがめさんは、したり顔でこちらを見ていた。
「……それ、」
「ん〜?」
「それにします」
握りしめた小銭と交換して手に入れたのは、キンキンに冷えた瓶ラムネだった。お祭りっぽくてなんかいいな、と思った。そごではたと両手が塞がっていることに気づく。これではまるでめちゃくちゃ満喫しているひとみたいだ。まだ何も、一歩も進んでいないのに。まだこれからなのに。
顔を上げると、どこかに視線を向けていたとがめさんはこちらに向き直り、小首を傾げた。見なれない彼の瞳に、体温が少しずつ上がっていく。
「あの、一緒に食べませんか、これ」
先ほどいただいたベビーカステラを持ち上げながら言った。それから。
「あと、この瓶の開け方がわからなくて……教えていただけませんか……」
瓶ラムネの開け方がわからない。我ながらあまりにも恥ずかしい事実に、言葉は尻すぼみになっていく。
喧騒に紛れて聞こえないくらい小さく笑った彼は、時間を確認したあと、「もうすぐ交代だからぁ、そのあとならいいよぉ」と言った。
「裏にイスあるしぃ、そこで座って待っててぇ。ビンラムネはいま開けたげるねぇ」
差し出された手に瓶ラムネを乗せる。一瞬触れた指先は、かたくてかさついていた。男性の手だ。それだけで心臓が跳ねる。彼は慣れた手つきでラベルを剥がし、蓋のようなものを押し込むとカコンと軽快な音がした。戻ってきた瓶のなかには、丸いものがころころと転がっている。
お言葉に甘えて屋台の裏側に回らせてもらい、折りたたみの小さなイスに腰掛けて交代の時を待つ。
とがめさんの耳に馴染む客寄せの声とお祭りのにぎわいをBGMに飲むラムネは、不思議な味がした。しゅわしゅわと口の中でほどける炭酸の優しい刺激。ベビーカステラの甘い香り。焼きそばの少し焦げたソースのにおい。お囃子も鐘の音も心地よく響いている。
しばらくして、慌ただしく駆けてきた人がいた。裏にいるからか目があってしまい、会釈だけした。とがめさんと交代の人だろう。数分後、とがめさんはのんびりと出てきた。
お疲れさまです、とベビーカステラの紙袋を差し出すと、手を突っ込み「いただきまぁす」と取り出した一個を口に入れた。
「とがめさんが買ってきてくれたんですし、好きなだけどうぞ」
「だめだよぉ、君にあげたんだから君のもの。でもぉ、許されたから遠慮なくぅ」
両手が塞がっていることに気づいたとがめさんは「口、開けてぇ」と言った。意図を察し焦る気持ちと食べたい気持ちを天秤にかけ、わずかに食べたいに傾いたため、ぱかっと開けた口にベビーカステラを放り込んでくれた。たまに食べるととてもおいしい。
一緒に食べようとお誘いして一緒に食べているわけだが、ここから何をどの方向に発展させればいいのかわからず、ラムネをぐいっと煽る。中身を空にしたところで、「これ、捨ててきますね」と、とがめさんに言った。
「ついていっていい?」
「? はい、どうぞ、ご自由に?」
「ついでに他のところも見て回ろうよぉ」
ゴミ箱の場所を思い出しながら歩き出す。とがめさんぽくないなと思う一方で、願ってもないことだった。
先日のときと纏う雰囲気が違う。他者を拒絶するようなヒリつきがない。優しい拒絶もない。チームが関わっているか否かが関係しているのだろうか。知らない人間同士だったのもあるかもしれない。お互いに少しずつ知っていることが増えた、と思う。だから知らない人間ではない。いまはきっと、素の十亀条に近いのかもしれない。やわらかくて、あたたかい。じんわりと吹き出す汗は暑さか緊張か、あるいはそのどちらも。
ゆったりとした足取りと下駄の響きが、とがめさんの存在を確かなものにする。唯一無二の存在に。
決して置いていかれることはなく、人の波に押し流されそうになると肩を引き寄せられる。その後なにごともなかったかのように手が離れる。周りの音が大きいから、ちょっとだけ身をかがめて話しかけてくれる。周りからどう見えるかとかは気にならなくて、きっとみんな周りのことなんて気にしてなくて。私は、とがめさんしか見えてなかった。――だって、もう、どきどきしっぱなしだ。再会した、あの瞬間から。
とがめさんと話したことの半分は飛んでいった。自分が何を話したのか、何と返したのかも覚えていない。彼の優しさに触れるたびに、胸がいっぱいになる。首元で小さく揺れるみつあみすら、輝いて見えた。
目の前で手のひらが揺れる。はっとしてとがめさんの顔を見上げると、彼は「座ろっかぁ」と言った。
「お気遣いありがとうございます、大丈夫です」
「んー、オレが座りたいかなぁ」
「あっ。それは……気がつかなくて、すみません」
働いたあと休むまもなく連れ出して、疲れているに違いないのに。何にも気づけなかった己を恥じる。自分のことばかり考えていた。しょんぼりしながら座れるところがないかを探すが、ほとんど埋まっている。それもそうだ、こういう場所は座るところなんてもともと少ない。だからといって、地べたに座らせるわけにはいかない。かくなる上は。
「……私がイスになるという手も、」
「最終手段にとっておくねぇ」
「そうですか」
「そうですよぉ」
ため息がきこえてきて視線を上げると、とがめさんは気まずそうな顔をしていた。初めて見る表情だ。
「君を座らせようと思ってたのにぃ。これじゃあカッコつかないなぁ」
「スマートご提案すぎて、察することすらできませんでした」
「それでいいよぉ」
全部わかられたらこっちの立つ瀬ないからさぁ、と。
立ったまま、時間だけが過ぎていく。踏み出せない一歩を、心の中で持て余す。どうしよっかぁ?と、とがめさんは首を傾げた。
「まだ……もうちょっと、いたいです、とがめさんと」
「ふーん?」
拒絶の言葉も表情もなく、からかうような笑みを浮かべている。たぶんもう全部わかっている。私が十亀条に惹かれていること、全部。
「あっ、なんですかその顔。こっちだって恥ずかしくて顔から火が吹き出そうなんですよ!」
今日のとがめさんはいじわるだ。でもそんな彼にときめいている自分がいることもまた事実で。
「なぁんにも言ってないのにぃ」
「もう! 帰ります!」
「待ってよぉ」
名前を呼ばれて、動きが止まる。魔法みたいだ。私にだけ効く魔法。効果抜群、自覚しているのだとしたらずるい人だ。
「またねぇ」
とがめさんはひらりと手を振る。あの日とは違って、朗らかに笑いながら。また会える保証はないのに、なぜだか遠くない未来で会える気がする。次は名前を呼ぶだけじゃ足りない。言ってしまおうか、「とがめさんのこと好きになりました、もっと会いたいです」と。
2024.10