近所のラーメン屋でよく見かけるお兄さんがいる。  背が高く体格が良いうえ、服装も髪型も一般的ではなく、カラーレンズのサングラスに下駄にという珍しいかつあまりお近づきになれなさそうな感じの見た目で、小心者の私は完全にその存在にビビってしまっていた。けれども、来店タイミングがかぶることが多く、私が行くときは必ず並んでいるか座っている。最初こそ「今日もいる……」などと思ったものの、人間慣れていくもので、数ヶ月もすればすっかりビビらなくなった。すると気持ちに余裕ができ、観察すらするようになった。  たとえば、ひとりのときはちょっとだけ猫背気味になっていること。友人らしき人たちと一緒のときもあること。複数人でいても、彼はひとり穏やかに微笑んでいる様子が印象的だった。  列に並んで順番待ちをしていると、後ろに並んだのは例のお兄さんだった。近づいてくる下駄の音でわかった。このへんで下駄をカラコロ鳴らしているのはお兄さんか一部の元気なおじいさんたちくらいのものだ。歩き方が違うからおじいさんたちではない。ちらりと視線を向けてみる。どうやら今日はひとりらしい。  回転が速いとはいえ、待ち時間はまだある。いつもなら絶対思わないのに、話しかけてみようかな、なんて気持ちが湧いてきた。自分はべつに社交的な方ではない。どちらかといえば、話さなくていいなら一生黙っている方だ。  喋りに来ているわけではないから話しかけられても困るだけだろうとは思う。実際、自分が人に話しかけられたときは困ったし、それが相手に伝わってしまったらしく、待っているあいだ微妙な気まずい空気に耐えなければならず、辛い時間を過ごしたことがある。  とはいえ、お兄さんに興味があるのもまた事実だった。ふと、前に話しかけてきた人も同じような感じだったのかなと思い至る。自分側が話しかけられる準備をしていなかった。それだけのこと、なのだと思う。  気まずくなったらすぐ切り上げよう。友人と待ち合わせがとかこのあとの予定がとか、抜け出す言い訳はいくらでもある。  思い切って声をかけてみた。 「こんにちは」  ぱっと顔を上げたお兄さんは、私を視界に入れると己を指差して首を傾げる。自分に話しかけたのかということだろうか。初めて声をかけたのだから、びっくりさせてしまったかもしれない。サングラスの奥の瞳が瞬く。しっかりと、目を合わせて言った。 「よく来られてますよね」  お兄さんは「あー……」と呟く。視線を外したかと思えば、すぐに戻ってきた。さすがにいまのはアウト寄りだったかと心の中で反省する。口を開こうとすると、彼が先に話しだした。 「ここぉ、大盛りが無料だからぁ」  お腹いっぱいになって助かるんだよねぇ、と続ける。たしかに大食い、というか普通にたくさん食べそうな雰囲気がある。以前ちらりと見えたお皿は大きかった気がするし、並んでるお皿の枚数も多かった。私は大盛りにしたことはないけれど、男性にはありがたいサービスなのだろう。 「セットも比較的お手頃価格ですよね」 「そう、そうなんだよねぇ」  へへへ、と笑い合う。わかるなあと思ってなんだか嬉しかった。  のんびりとしたお兄さんの話し方につられて、私も気持ちが穏やかになっていく。 「ご友人と来られてる日もありますよね」 「ちょっと恥ずかしいなぁ」 「すみません、えっと、私は基本ひとりなのでご友人とご一緒なのいいなって思って見てました」  正確には、友人と一緒にいながら穏やかな表情で彼らを見ているお兄さんの空気感がいいなと思っていた。それだけで大事な友人たちなのだろうと察することができる。「そうだったんだぁ」と空気に溶けてしまいそうなほど小さな声が聞こえて。 「……嫌じゃなかったら、今日ご一緒するぅ?」 「! よければ、ぜひ」  思いがけないご提案に、食い気味に返事をしてしまった。一緒にご飯する友人がいないあわれなヤツだと思われているかもしれないけれど、ご飯しにいく友人がいないだけで友人はいるのだ。あれ?  どんどん列は進んでいく。カウンター席のみで回転率が高い。ご一緒させてもらったところで三十分もいるかいないか程度だ。そのうちの半分以上が食べている時間になる。会話が途切れたところで不自然ではないだろう。  せっかくなのでお互いに自己紹介をし、お兄さん――十亀条と名乗った――のご年齢をうかがったところで年下であることを知る。向こうは向こうで私の年を聞いて、心なしか背筋を伸ばしたように見えた。 「敬語、とか使ったほうがいい、デスカ?」 「カタコトおもしろいけどお気になさらず。私のは癖みたいなものだから」 「よかったぁ。苦手なんだよねぇ、畏まるの」  そう言いながらサングラス越しに見えるのほほんとした笑みに、年相応の可愛らしさを感じる。はじめの頃の慣れてないときに感じた怖さはもう感じられない。  そうこうしているうちに順番が来て、譲り合いながらも席に着き、お互いに注文を済ませる。  結果的にはカウンター席で助かった。サングラスを外した十亀さんの瞳があまりにも綺麗で、対面だったら吸い込まれていたと思うから。つまり顔を見て話せなくなっていたと思うので、顔をあわせずにすむ横並びが個人的大正解だったというわけだ。あと、食べてるところを家族や友人以外に真正面から見られるのはちょっと恥ずかしい。  先に立ち上がり二人分の水を入れる。戻ると、彼は妙な姿勢のまま固まっていた。 「どうしました?」 「……ありがとうと、させてしまったって、思ってぇ」 「先に声かけたのはこちらなので、このくらいは」 「でもぉ……」 「こういうときはありがたく受け取りなさい」  先輩風吹かせすぎるのもどうかと思ったけれど、小さく笑って「ありがとぉ」と言ってくれたので、引かれていないと信じたい。  カウンターの向こう側を眺めつつ、ぽつりぽつりと話が続いていく。私が彼の友人だと思っていた人たちは仲間だということ。銭湯によく行くこと。そこの常連のご老人の知り合いが多くいること。  聞けば聞くほど行動範囲がかぶらなさすぎて、ここで出会ったのは奇跡なのではと思い始めた。もしかしたら今日が会える最後の日だった可能性だってある。 「全然違いますね。その、生活圏が」 「そうだねぇ」 「今日、十亀さんとお話しできてよかったです。次もう会えないかもしれないですし」 「そんなことないんじゃないかなぁ」  流れるように出来上がったラーメンを受け取り、手を合わせる。十亀さんは他にも注文していて、目の前にはお皿が広がっていく。 「圧巻」 「いつもこんなもんだよぉ」  そうして食べ始めた彼のひとくちの大きさに驚いた。勢いよく吸い込まれていく様を見ているだけでお腹いっぱいになりそうだったので、あわてて目の前のひとさらに手を付けた。  ふう、と水を飲む。  手を合わせて横に視線を向けると、十亀さんも手を合わせていた。食べ始めが一緒で、なぜか食べ終わりも一緒だったらしい。 「食べるのはやいですね……?」 「こんなもんだよぉ」  彼は「あ、でもぉ、」と続けた。 「制限時間付きの大食いとかもすることあるからぁ、人よりちょぉっとはやいかもぉ」  ちょっとどころではない気がする。大食いしてるところを見てみたい。  話もそこそこに、十亀さんが水を飲み終わったのを見計らってから立ち上がる。彼もあわせて立ち上がった。  店を出て大きく伸びをする。今日は晴れていて気持ちがいい日だった。 「それじゃあまた」  そう言って十亀さんを振り返ると、なんだか眩しそうな顔をしていた。サングラスつけ忘れてるんだなと思って伝えようとしたところを、「今日はありがとねぇ」と彼に遮られる。視線が交わる。吸い込まれそうなくらいに綺麗なエメラルドにちょっとだけ、たじろいでしまう。 「また会ったら話そうねぇ」  彼の方からそう言ってくれると思ってなくてぽかんとしてしまった。あわてて何度も頷く。全然気まずくならなかったし、楽しかった。思い切って声をかけてよかったと思う。 「あっちのほうの河川敷とかぁ、よく行くんだよねぇ」  今度はもうちょっと話そうねぇ、と。  はっと気がついたときには十亀さんの背中は見えなくなっていた。その場にしゃがみ込んで膝を抱える。今度じゃなくて、今でいいのに。そう言えたらよかったのかな、なんて。  生活圏がかぶらない彼と唯一会える場所。それから、もしかしたら次に会えるかもしれない場所。  明日から河川敷の方も通ってみようかな。 2025.12