妹みたいに思ってる――などと言うやつには注意せよ。
兄からの数少ないありがたいお言葉のひとつだったけれど、それを実際に耳にする日が来るとは思わなかった。
そう、まさに今。目の前で一言一句違わずその言葉を口にした人がいたのだ。
絶句したままその人の顔を見上げる。しっかりセットされた隙のないヘアスタイル。シルバーのアクセサリーはよく似合っていてオシャレだなと思う一方で、縁がないとちょっと身構えてしまう。「ん?」と少しだけ口角を上げて首を傾げる様は、頼りになる雰囲気しか感じられない。
いやいや、さすがにこの人は兄が言っているような要注意人物ではないだろう。実際に妹さんがいると聞いている。下がいない人の言う「妹みたいに以下略」が要注意なのはわかるけれど、妹がいる人の「妹以下略」は言葉通りの意味でしかない。だから大丈夫だよ、兄よ。この人は信じられる。私が保証する。
「――だがな、」
頭に置かれていた手がするりと頬を撫でる。頬を、撫で……?
「どうしてだろうな。いつからか、そう思えなくなったんだ」
どうしようお兄ちゃん、雲行きがあやしくなってきた。
困ったように笑う彼――鰐島勇吾は、「悪い。困らせてしまったな」と言って手を引っ込めた。
「……あ、」
「明日のシフトもよろしく頼む」
あたたかい手のひらが離れるのを名残惜しく思ってしまったことに気づいた時には、すでに遅かったのだと思う。触れられた頬は熱を持ったまま、心臓の音だけがやけにうるさく鳴り響く。
◇
鰐島勇吾とはバイト先で知り合った。
初めて顔を合わせたときは、いかつい寄りのスタイルにちょっとビビって近寄りがたかった。けれども言葉遣いは丁寧だし、人当たりもよく、すぐに打ち解けられた。ほぼ同時期の採用だったため、顔を合わせる機会が多かったこともあり、仲良くなるのに時間はかからなかった。
バイトが初めてだった私は知らないことの多さに戸惑い、そのたびに鰐島さんからから教えてもらうばかりで。あとからバイトを複数掛け持ちしているのだと聞いた。だからかスタートは同じなのに、経験値の差は大きく、本当に同年代なのかと疑ってしまうほど頼もしかった。それゆえに他の人よりも頼ってしまうことが多かったけれど、鰐島さんは嫌な顔一つせず、相手をしてくれたのだ。それが妹のように手のかかる子という意味で「妹以下略」だったのだろうと思う。
それがどうなってああいうことになったのかはわからない。私はただ普通にしていただけだ。ましてや彼とプライベートの時間を一緒に過ごしたことはない。なぜなら彼のスケジュールはぎちぎちに詰まっているから。シフト提出のときにスケジュールアプリを見せてもらったことがあるけれど、予定がびっしりだった。予定外の予定を入れる隙はない。
あのあと、頭のなかは鰐島さんのことでいっぱいだった。退勤後、ロッカーにある鰐島の二文字を目にするだけでどきどきしてしまったし、家に帰ってからも様子がおかしかったのか兄に心配された。
考えすぎて頭がショートしてしまって、こんなこと身内に聞くのもおかしいかと思いつつ、でももう兄に泣きつくしかなかった。
「妹みたいに思ってた人が妹に見えなくなるのってどんなとき?」
「は? 殺す」
「もうお兄ちゃんしか頼れないんだって。答えてよぉ」
一瞬で殺意に満ち溢れてしまった兄に、伝家の宝刀「あなたしかいない」を繰り出す。なんだかんだで妹に頼られたら断れないのを知っている。だから今だって、言葉に詰まりながらも殺意は引っ込めてくれた。
わざとらしく咳払いをしながら、「いや……でもなぁ、」と続ける。
「普通に考えて妹みたいに思えるわけないだろ」
「妹がいる人でも?」
「妹がいるから余計に無理なんじゃないのか? 最初から狙われてたんだと思うけど。……うわっ、考えるだけで腹立つ! むかつく! 俺の妹に!」
「そっ……か…………」
「いいか、もしちょっとでも揺らいでるなら、まず俺に会わせること。話はそれからだ」
偉そうにこんなことを言っているけれど、私は知っているのだ。
「お兄ちゃんの彼女には会わせてくれないのに?」
「…………えっ、なんで知って……?」
「こないだ歩いてるとこ見かけたんだよーだ!」
追及される前にお礼だけ言って自室に駆け込んだ。
ドアを閉めてひとりになってから、だんだんと頬に熱が集まっていくのを感じる。最初から、なんて。そうなのかな? そんなこと、あるのかな?
意識しだすと急に、本当に急に好感度メーターが振り切れてしまった。いや、もともと好感度は高い。だって、いっぱい頼っていっぱいお世話になったから、好きに決まっている。そういう好きじゃなかっただけで。
スキンシップは肩とか腕とかはこれまでにもあったし、それくらいは誰にだってすると思う。だから深く考えることはなかったけれど、頭を撫でるは誰にでもしない。少なくとも自分はそうだ。ましてや、頬、なんて。
そういえば。重いものを運んでいたら誰よりも早く気づいてくれてフォローしてくれたのは、鰐島さんだ。客にしつこく絡まれていたらシームレスに対応を変わってくれたこともある。些細なことかもしれないし、誰にでも同じことをしているのかもしれない。けれどもそのときの私は、鰐島さんがいてくれて心強かったと同時に、今思えば少しずつ惹かれていたのだと思う。
たぶんもう、顔を見て話せない。いつも通りなんてできない。
明日のシフト、どんな顔して行けばいいんだろう。
◇
出勤前に鉢合わせそうになったけれど、偶然を装ってトイレに駆け込み、時間をずらして事なきを得た。
問題はそのあと。鰐島さんのほうが少し早く上がるシフトだったから、努めて平静を装い、いつも通り「お疲れ様です」と声をかけた。
すると綺麗な色の瞳が瞬いて、少しだけ破顔する。頼れるところばかりを見てきていたから、初めてのかわいらしい反応に面食らって固まってしまう。鰐島さんはちょっとだけ声を潜めて「このあと時間が欲しい。向かいのカフェで待ってる」と言い残して颯爽と行ってしまった。
昨日の今日でそれは、そういうことでは?
さすがの私でも展開が予想できる。それだけに、もはや平常心ではいられなかった。退勤までの数十分間の記憶は吹き飛び、気がつけば鰐島さん指定のカフェの前に立ち尽くしていた。
道路沿いのガラス窓から、鰐島さんの後頭部が見える。外側が見えない位置に座っているのは、私が来ることを確信しているからだろうか。
いまならまだ、なかったことにできる。「このあと予定があって」とか「忙しくて忘れちゃった」とか、言い訳はいくらでもできる。けれど一歩、中に入ってしまえば。もう、逃げられない。
足が震える。手汗でスマホが滑る。心臓が口から飛び出しそうだった。何度目になるかわからない視線を送って――鰐島さんが振り返った。視線がぶつかって、ぱっと明るくなる彼の表情に引き寄せられるように、一歩を踏み出す。
ガラスに一瞬映った自分は、いままでで一番情けない顔をしていた。
2025.10